定義
すべての部品を新しいものへと一つずつ交換していったとき、その物は果たして「元のその物」のままであり続けているのかを問う、古代ギリシャの有名な哲学的思考実験です。物の同一性(アイデンティティ)が見た目の形にあるのか、それを構成する物質にあるのか、それとも積み重ねてきた歴史にあるのかを深く考えさせてくれます。
板を一枚ずつ張り替えた船の謎
お気に入りの自転車のタイヤがすり減って、新品に交換したときのことを思い出してみてください。タイヤを一つ替えたからといって、自転車の持ち主が変わったり、別の自転車になったりするわけではありませんよね。
古代ギリシャのアテネの人々も、よく似た状況に直面しました。伝説の英雄テセウスが乗って帰還した巨大な木造船を記念として港に保存するにあたり、腐った木板が見つかるたび、丈夫な新しい板へと一枚ずつ交換していったのです。そうして長い年月をかけて板を替え続けていくと、いつかは元の木板が一枚も残らない瞬間が訪れます。
では、すべての部品が新しいものに生まれ変わったこの船は、今でも英雄が乗っていた「あの船」と言えるのでしょうか。それとも、まったく新しく作られた「別の船」なのでしょうか。見た目はそのままでも構成する物質が100%入れ替わったとき、どこまでを元の存在として認めるべきかを投げかける問いなのです。
外した古い板で、もう一隻の船を作ったら?
のちに17世紀のイギリスの哲学者トマス・ホッブズは、さらに一歩踏み込んで、頭を悩ませる問いを投げかけました。船から取り外した古い板を捨てずに、倉庫にコツコツと保管しておいたと想像してみたのです。
長い年月が流れたある日、職人がその古い板を元の設計図通りに組み立て直し、一隻の船を完成させました。これで港には、修理を重ねて部品がすべて新品になった船と、かつての古い板を再び集めて作られた船という、二隻の船が並ぶことになりました。
果たして、二隻のうち「本物のテセウスの船」はどちらでしょうか。港にとどまり続け、記念碑としての役割を果たしてきた船でしょうか。それとも、英雄が実際に足を踏み入れた古い物質そのものを保ち続けている船でしょうか。答えを出すのが難しいのは、人によって「同一性」をどこに見出すかの基準が異なるからです。
もう少し正確に言うと、私たちの体も毎日入れ替わっています
もう少し正確に言うと、この思考実験は古い木造船の話にとどまらず、いま息をして生きている私たち人間にもそのまま当てはまる原理です。
私たちの体にある多くの細胞は、毎瞬休むことなく壊され、新しく生まれています。皮膚の細胞や血液、骨組織など、多くの組織が絶えず新陳代謝を繰り返しています。ただし、脳の神経細胞のように生涯ほとんど入れ替わらない細胞もあるため、入れ替わるスピードは組織によって大きく異なります。
そのため、10年前の幼い頃の自分と今の自分では、体を構成する物質がかなり入れ替わっています。それでも私たちは、自分を「同じ人間」だと信じて疑いませんよね。だからこそ多くの哲学者は、人間の同一性を記憶や経験の連続性に見出したりもします。もちろん、これも数ある答えの一つにすぎません。
よくある誤解
テセウスの船の問題には、論理的に割り切れる正解が一つに決まっている。
正解を当てるクイズではなく、私たちが物や人の「同一性(アイデンティティ)」をどのような基準で判断しているのか(形なのか、素材なのか、歴史なのか)を探求するための思考実験です。
日常で出会う場面
部品を一つずつ修理・交換しながら、10年間使い続けているスマートフォンや自動車。
結成当初のオリジナルメンバーが全員引退して新メンバーに入れ替わっても、名前と伝統を受け継ぎ活動を続ける歴史ある音楽バンド。
つまり ひとことで
すべての部品が入れ替わっても元の存在と言えるのかを問いかけ、同一性(アイデンティティ)の本質を探る哲学的な思考実験です。