定義
山脈や河川などの自然地形ではなく、緯度や経度、あるいは2つの地点をまっすぐ結ぶ直線を基準に定められた国境線です。目印になる地形が乏しい平原や砂漠地帯でよく用いられ、かつて帝国主義列強が植民地を分割する過程で人為的に数多く引かれました。
地図の上に定規を当てて引いた線
私たちが普段思い浮かべる国境線は、曲がりくねった川の流れや険しい山脈の尾根に沿ってぐねぐねと続いています。こうした境界を「自然国境」と呼びます。一方でアフリカ大陸や北アメリカの地図を開いてみると、まるで定規で測ったかのようにまっすぐ伸びた国境線が目につきます。
こうした直線的な境界線が大量に引かれる最大のきっかけとなった歴史的出来事が、19世紀のヨーロッパ列強による植民地獲得競争です。1884年から85年にかけて開かれたベルリン会議では、ヨーロッパ各国の代表たちが机を囲み、現地の事情をほとんど顧みることなくアフリカの地を分割するルールを自分たちだけで勝手に決めました。この会議の場で国境線のすべてが決まったわけではありませんが、これを機に列強が条約を結び合い、広大なアフリカの地図の上に定規を当てて勝手に直線を引く動きが一気に広がっていったのです。
その土地に暮らしていた先住民族の生活圏や言語、文化的な背景はほぼ無視されました。ヨーロッパ諸国が自分たちの都合と利害に合わせて領土を分け合うことだけを優先した結果でした。
また、どこまでも広がるサハラ砂漠のように目立った地形や目印が存在しない広大な平坦地でも、境界を明確にするために両端の拠点を直線で結ぶ手法がよく使われました。
もう少し正確に言うと:地球の座標系に従った基準
直線国境は、地球の仮想的な座標系である緯度や経度を基準線にしたり、2つの地点をまっすぐ結ぶ方式で定められました。地理学ではこれを「幾何学的国境」と呼びます。
代表的な例が、アメリカとカナダの国境をなす西部区間です。アメリカと、当時カナダを治めていたイギリスは、1818年と1846年の条約によって北緯49度線を境界とすることに平和的に合意し、この線が今日の両国国境へと受け継がれました。オーストラリアの州境やアフリカ北部の多くの国境も、特定の緯度・経度の数値をそのまま使って引かれています。
砂漠や大平原のように際立った山や川がない平坦な土地では、自然の地形を目印に国境を決めることが極めて困難です。そのため、緯線や経線のような明確な数値座標を境界に設定するやり方は、比較的シンプルかつ客観的に領土を画定できる手段として重宝されました。ただし、エジプトとスーダンの間の北緯22度線のように、直線国境であっても後に対立や紛争の原因となった場所もあります。
なお、緯線に沿って引かれた境界線は、丸い地球の上で見ると実際には円の一部である曲線を描いています。地図上でまっすぐな直線に見えるかどうかは、地図の投影図法(描き方)によって変わります。
まっすぐな線の裏に潜む葛藤と傷痕
地図の上で整然と引かれた直線は、書類の上では非常に明快で、行政管理の面でも合理的に見えます。しかし、その土地で何世代にもわたって暮らしてきた数多くの人々にとっては、癒えることのない大きな悲劇をもたらしました。
何百年もの間、同じ言語や文化を分かち合って一つの共同体として生きてきた民族が、ある日突然2つ以上の国へと引き裂かれました。逆に、長年激しく対立してきた別々の民族が、ひとつの国家という枠組みの中に無理やり閉じ込められる事態も起きました。
植民地支配から独立した後も、人為的に決められた国境線の多くはそのまま維持されました。現地の都合を無視して引かれたこの線は、その後のアフリカや中東各地で民族対立や紛争を激化させた主要な要因のひとつとされています。もちろん紛争には、統治のあり方や資源の奪い合い、外部からの軍事介入など、他の複雑な要素も絡み合っています。
現代の国際社会では、不用意に国境線を引き直すことでより壊滅的な戦争が起きる事態を避けるため、既存の国境を尊重する方針をとっています。そのため、地図の上に残るまっすぐな線は、今も多くの歴史的な痛みを抱えながらそこにあり続けているのです。
よくある誤解
直線国境はすべてアフリカのように帝国主義の侵略や植民地支配によって生まれたものである。
アメリカとイギリスが条約で合意したアメリカ・カナダ国境のように、無用な軍事衝突を避けるために平和的な外交交渉を通じて緯度や経度をもとに定められた直線国境も数多く存在します。
日常で出会う場面
アメリカとカナダの西部国境線は、大部分が北緯49度線に沿ってまっすぐ伸びています。
エジプト・リビア国境(概ね東経25度線)やエジプト・スーダン国境(北緯22度線)など、サハラ砂漠を横切る国境区間には直線が多く見られます。
つまり ひとことで
自然地形の代わりに緯度や経度に合わせて人為的に引かれた国境で、過酷な植民地支配の歴史の傷痕と、平和的な外交合意の証しという両面を現在に伝えています。