定義
業界のトップ企業が「失敗した」からではなく、「正しい経営判断を積み重ねた」からこそ市場から淘汰されてしまう構造のことです。優良顧客の要望に応え、利益率の高い事業に資金を投資するという真っ当な判断が、小さくて安価な新技術への投資を後回しにさせてしまいます。その技術が本格的に役に立つレベルへと進化した頃には、もう追いつく時間が残されていないのです。
液晶画面を世界で初めて披露した会社は、どこへ行ったのか
薄くて軽い液晶ディスプレイを世界で初めて披露したのは、ブラウン管テレビで大成功していた米国の電機メーカー・RCAの研究所でした。しかし、その液晶を製品化して市場を切り開いたのは、同社ではありませんでした。
最初に売れたのもテレビではなく、手のひらサイズの電卓や腕時計でした。日本のシャープは1973年に液晶表示の電卓を、セイコーも同年、6桁表示の液晶腕時計を発売して市場を広げました。初期の液晶は画面が小さく、表示も薄くて反応が遅かったため、とてもテレビに使えるような品質ではなかったのです。しかし、消費電力が極めて小さく、電池で動く小型機器にはうってつけでした。
勝敗を分けたのは「ブラウン管事業を持っていたかどうか」ではありません。シャープもまた日本で初めて国産テレビを量産し、カラーブラウン管テレビを販売していた会社でした。分かれ目となったのは、社内で液晶という新技術に資金と人が配分されたかどうかでした。ブラウン管が巨額の売上をもたらしていた大企業にとって、液晶が狙う電卓市場などは小さすぎ、利益率も低すぎました。そのため投資の優先順位が常に後回しにされたのです。一方、電卓が主力だったシャープにとっては、まさにその小さな市場こそが主戦場でした。
液晶は電卓から腕時計へ、腕時計から小型カラー画面へ、ノートパソコンからPCモニターへと着実に用途を広げていきました。そして最後には、本丸であるテレビの座まで登り詰めたのです。
経営会議で必ず却下される議案
なぜトップ企業は、自ら開けた技術の扉に入ることができなかったのでしょうか。決して怠慢だったわけでも、技術を知らなかったわけでもありません。社内で資金や人員をどこに配分するかを決める会議で、毎回敗れ去ったからです。
新しい技術は、登場した当初は性能が劣っています。すると、今一番お金を払ってくれている優良顧客は「そんなものは使い物にならない」と言います。その結果、既存顧客の要望に応える提案が社内会議で勝ち残ります。新技術の提案は、市場規模も小さく利益も薄いため、優先順位がどんどん後ろへ追いやられます。
ここまでの流れに、おかしな点は何一つありません。いま売上を支えてくれている顧客の声に耳を傾けることは、経営として最も正しく教科書的な判断だからです。
問題は、そうして後回しにしている間にも、新技術がニッチな市場で着実に性能を高めていく点にあります。そしてある日、かつて見向きもしなかった既存顧客が求める水準にまで達します。その時になって慌てて参入しようとしても、先行したライバル企業は何年分もの量産経験とコスト削減のノウハウをすでに積み上げているのです。
より正確に知る:破壊的イノベーションとは何が違うのか
「イノベーションのジレンマ」は、「破壊的イノベーション」としばしば混同されます。しかしこの2つは、同じ現象を別の角度から捉えた言葉です。破壊的イノベーションが下から這い上がってくる技術や製品そのものを指すのに対し、イノベーションのジレンマは、その脅威を前にして既存の優良企業が「正しい判断」を下した結果として敗れ去ってしまう構造を指しています。
だからこそ「ジレンマ」と呼ばれます。目の前の顧客の声を聞き続ければ新技術に足元をすくわれ、かといって顧客を無視すれば今日の売上が揺らぎます。どちらを選んでも大きな代償を払わなければならない立場に追い込まれるのです。
ただし、既存のトップ企業が没落するケースのすべてがこの構造に当てはまるわけではありません。単に前年度の業績が悪化して新技術に回す資金そのものがなかった企業もあれば、製品の仕様を一段ずつ高めていたところ市場がその中間を飛び越えて変化してしまったケースもあります。これらは会議室での意思決定の罠というより、財務や事業の体力不足によって生じた敗北です。
したがって、この概念は未来を当てる予言というよりも、企業の健全性を測る「チェックリスト」に近いものです。「現在最も売れている主力商品の顧客が『そんなものはいらない』と切り捨てている技術はないか」、そして「その未熟な技術が、別の小さな市場でどれほどのスピードで進化しているか」を常に点検させてくれるのです。
よくある誤解
イノベーションのジレンマとは、大企業が怠慢で官僚的だから新技術に乗り遅れるという意味である。
むしろ、経営管理が徹底された「優秀な企業」ほど陥りやすい現象です。優良顧客を大切にし、最も利益が出る事業に経営資源を集中するという合理的で正しい判断を徹底した結果だからです。
トップ企業は新技術の存在を知らなかったから淘汰される。
敗れ去った企業自身が、その技術を世界で最初に開発していたケースすらあります。技術を知っていることと、その技術に社内の資金や人員を投じる正当な理由を見出すことは、まったく別の問題なのです。
日常で出会う場面
ブラウン管テレビで稼いでいた企業にとって、初期の液晶画面は画質が低く使い物にならない技術に見えたため、社内での投資順位が後回しにされました。
高性能な既存製品に慣れたお得意様から「その性能ではうちの現場で使えない」と言われ、安価な新製品の開発が次の年度へと先送りにされる会議の光景です。
つまり ひとことで
優秀な企業がミスをしたからではなく、現在の顧客の声に誠実に耳を傾けたからこそ、下から這い上がってきた新技術に足元をすくわれてしまう構造のことです。