一般常識 ストーリー

ミシンの歴史

一着の服を最初から最後まで知る人が消えた物語

  • 約20分で読めます
  • 1830 – 2025
  • 10章
  • 図 10点
  • 出典 14件

シャツを1枚裏返してみると、縫い目が十数箇所あります。肩の縫い目、脇線、袖、袖口、襟、前立て、ポケット、裾。ここに布を裁断する作業、仮縫い、ボタンホールを開ける作業、アイロン掛けが加わります。

1世紀半前なら、この仕事を一人の人間がすべてやっていました。 仕立職人(テーラー)は寸法を測り、型紙を置き、裁断し、縫い合わせ、アイロンを掛ける作業をすべて知る人でした。イギリス上院の調査委員会が1890年に書き留めた証言はこうでした。適切な訓練を受けた仕立職人は、服一着まるごとでもその一部でも作ることができ、自分の仕事を最初から最後まで知っていた、と。

今は違います。米国労働省が1898年にシャツ12ダースを単位として、昔ながらの手作業と機械による方式を並べて調査しました。4つの単位すべてで手作業側は関わった人が1人だったのに対し、機械方式側は14人、22人、38人、そして230人でした。

この物語が追うのは、ミシンがどれほど速かったかではありません。一着の服が何人の手を経るようになったのか、そしてその人たちがそれぞれ何を知るようになったのかです。

ひと目でわかる年表

一人の手ですべて作っていた時代

  1. 1830 ティモニエがフランスで特許取得 — 現場で稼働した最初の機械
  2. 1841 パリの作業場でミシン80台が仕立職人たちの手で破壊される
  3. 1846 ハウの米国特許 — 表題は「ミシンの改良」
  4. 1851 シンガーの米国特許 — この表題も「ミシンの改良」

機械の登場

  1. 1861 ミシン会社自らが発表した手縫いと機械の比較実験表

細分化される工程

  1. 1876 ニューヨークの既製服コート製造にタスク制が導入される
  2. 1890 イギリス上院が25工程に及ぶ分業の証言を記録
  3. 1898 米国労働省の調査 — シャツ12ダースに手作業1人、機械38人
  4. 1900 米国人口センサス — コート1着に100人以上が関わる工場
  5. 1911 米国労働局の調査 — コートが30人の手を経る

現在

  1. 2017 国際労働機関 — 縫製工場の労働力の67%が縫製工程
  2. 2023 韓国の国家承認統計で「シダ(見習い補助工)」がその他項目に分類される
  3. 2025 ソウル市の調査 — 縫製労働者は通常1〜2工程を担当

一着の服が一人の頭の中にすべて入っていた時代

仕立職人が把握していた仕事のリストがどれほど長かったかは、米国労働省の1898年の調査に残されています。この調査は、同じ製品を昔ながらの手作業と機械による方式で作る際の工程を、順を追ってすべて記録しているのです。紳士服一着の工程は、このように続きます。生地を縮めて整え、生地を巻き、型紙を当てて印をつけ、裁断し、付属資材をまとめ、縫い目を縫い合わせ、ボタンホールとボタンの位置を記し、ボタンホールをあけ、その穴をかがり、裏地をまつって仕上げ、アイロンをかけ、ボタンをつけ、検査してブラシをかけます。13もの工程です。

この工程の連なりを一人の人間がすべて握っていたという事実が、この話の出発点です。同じ調査でシャツ12ダースを手作業で作った記録を見ると、報告書には「手縫いのシャツを生産する際は、一人の女性が各単位の作業をすべて行った」と記されています。低価格の紳士服4単位でも同様でした。一人の女性が、服一着を完成させるのに必要な数々の工程を一人ですべてこなしていたのです。その仕事を習得するには長い年月がかかりました。イギリス上院委員会は、仕立ての現場において徒弟制度が崩壊しつつあることを多くの証人が懸念していた、と記録しています。

ところで、「ミシンは誰が発明したのか」という問いには、ここでは答えません。着眼点がいくつもあり、一言では言い切れないからです。広く知られる二つの米国特許は、題名がどちらも「ミシンの改良」となっています。1846年のハウの4,750号も、1851年のシンガーの8,294号もそうです。どちらもミシンそのものを発明したとは主張せず、それぞれ5つと3つの装置を請求しています。実際の生産現場で稼働した最初の機械は、1830年にフランス特許を取得したティモニエのものでした。スミソニアンの記録によれば、1841年に彼がパリのある作業場で80台の機械を使って軍服を縫っていた際、発明が生計を奪うことを恐れた仕立職人の一団が押し入り、機械を打ち壊しました。機械を打ち壊した事件が、この物語の幕開け近くに置かれているわけです。1860年のある新聞記事は、米国の特許記録において縫製関連の特許を最初に見出せる年を1842年と記しています。スミソニアンの研究者は1968年にこう記しました。実用的なミシンは一人の天才性から生まれたのではなく、1世紀にわたる試行錯誤と部分的な成功が積み重なった結果なのだ、と。

ここで覚えること この章が数えるのは、機械の性能ではありません。服一着の13の工程が、何人に分担されていたかです。

機械が入ってくると、まず細分化された仕事は「組」になりました

米国国勢調査局が1900年に残した衣類編の記録に、この過程が産業自身の言葉で記されています。ミシンが広く普及した後、既製服は主にジャーニーマン仕立屋たちが作っていましたが、国勢調査にはこう書かれています。「当時は仕立屋の一人ひとりが熟練工であり、服一着のすべてを仕立てていた。」

次の段階は「家庭」でした。ドイツ系移民たちが既製服の製造に参入し、服作りに分業を持ち込みましたが、その分業の舞台となったのはそれぞれの自宅だったのです。父親がミシン作業を行い、母親と子どもたちがしつけ縫いや仕上げ、ボタンホールを担当しました。一着の服が初めて何人もの手を渡るようになった場所は、工場ではなく暮らしの場である家屋だったということです。

その次が、1876年頃からニューヨークに定着した「タスク・システム(課業制)」です。国勢調査の記述はきっぱりとしています。「この制度の導入は既製服産業を一変させた。働く人が熟練工である必要はもはやなくなり、ジャーニーマン仕立屋はこの分野から締め出された。」ただし、ここには但し書きがついています。「この制度はコートの製造にのみ適用された。」ズボンやベストはまだ対象ではありませんでした。作業の細分化は、服の種類ごとに異なるスピードでやってきたのです。

タスク・システムの組は3人でした。ミシンの全作業を行うオペレーター、表裏を合わせて縫い代にアイロンをかけるしつけ工、縁を整えて袖ぐりをしつける仕上げ工。この組の外側にアイロン工が1人、そしてボタンを付けてボタンホールをかがる女性が1人いました。合わせて5人です。国勢調査が記録した金額はこうでした。タスク・システムが始まった頃、ジャーニーマン仕立屋はコート一着を1人で最初から最後まで仕上げて2ドル50セントから3ドルを受け取っていましたが、タスク作業場では同じコートを5人がかりで1ドル50セントから2ドルで作っていました。

ここで覚えること 作業の細分化は工場から始まったわけではありません。家庭内の家族分業から始まり、3人1組のチームへと移行していきました。

値付けの単位が服1着から1日分のタスクへと移り変わりました

細かく分かれたのは作業だけではありませんでした。値付けの単位も一緒に変わったのです。 裁断士はコート1着につきいくら、と受け取っていました。一方、タスク制のチームは1日分のタスクにつきいくら、と受け取っていたのです。この違いが、その後の数十年の歴史を形作ることになります。

1900年の国勢調査の記述は具体的です。タスク制が最初に始まった頃、オーバーコート1タスクは週あたり50着ほどで、操作者が18ドル、しつけ工が16ドル、仕上げ工が11ドル、アイロン工が12ドルを受け取っていました。ボタンとボタンホールを担当する女性は週給で4ドル50セントほどを受け取っていました。ところが景気が悪化して人手が余った際、製造業者が請負業者に単価を下げるよう求めると、請負業者はその事情を作業者たちに伝え、作業者たちは賃金が削られないようにとタスクの量を増やすことに同意したのです。最初は1日8着や9着だったタスクが、20着にまで跳ね上がりました。

国勢調査がその次に記した一文が、この章のすべてを物語っています。「労働者たちは、タスクが8着であれ20着であれ常に同じ額を受け取っていたため、自分の賃金が削られたとは思わなかった。」 1日12時間働いても1日分のタスクを終わらせることができなくなると、さらに長く働き、20時間働いても終わらずに30時間以上かかることが珍しくなくなった、とも記されています。

1911年に米国労働局が上院に提出した調査報告は、この構造を一行で言い表しました。タスク制の賃金は「名目は日給だが実質は出来高給」である、と。労働時間が決まっていないため、働く側は時間を顧みずにタスクを終わらせようとし、雇う側はタスクの量を増やしたくなる、とその報告書は記しました。価格の単位が何であるかが、どちらに有利に働くかを決めるポイントだったのです。のちに大規模な工場へと移行するにつれ、この単位は再び週給へと変わっていきました。

ここで覚えること 服1着の値段から1日分のタスクの値段へ。単位が変われば、同じ額であっても同じ額ではなくなるのです。

「手縫いで14時間、機械で1時間」という表を開いてみました

今でもいたるところで引用される一節があります。手縫いでシャツ1枚を作るには14時間かかるのに、ミシンなら1時間16分で済むというもの。ミシン会社の沿革ページにもこの一節が掲載されており、「当時のミシン400台は、労働者2,000人が行えるあらゆる仕事をやってのけた」という一文が並んで掲げられています。

元の表を調べてみました。スミソニアン博物館の研究者が1861年の刊行物を出典として引用した表なのですが、ミシン会社のウィーラー&ウィルソンが自ら行った実験でした。標本は手縫い職人4人と機械操作者4人で、その平均値だったのです。そして表の題名は「縫製された衣服の時間」となっています。測定されたのは衣服を作った時間ではなく、縫った時間でした。裁断したり、仮縫いをしたり、ボタンホールを開けたり、アイロンをかけたりする作業は含まれていません。その1年前、1860年1月7日付の新聞記事の一文も同じような調子でした。「紳士用シャツに施す縫製作業は、一級のミシンなら1時間で優に終わるが、手作業で同じことをするには14時間かかる。」作った時間ではなく「施す縫製作業」だったのです。400台と2,000人という数字の元の出所は、さらに思いがけないものでした。発明者に特許期間の延長を認めようと主張する弁論に掲載された、工場主自身の陳述だったのです。

では、政府が測定した数値はどうでしょうか。米国労働省の1898年の調査ではシャツ12ダースを単位として測定していますが、ある単位では720時間が83時間24分に短縮されて9倍、別の単位では手作業で1,176時間だったものが機械で168時間となって7倍でした。14倍という数字は出てきませんでした。

ところが、この調査も揺らいでいます。そしてその揺らぎの箇所を、調査自身が書き記していました。報告書の序文では手作業方式のデータを得るのがはるかに難しかったと述べ、「とうの昔に現役を退いた雇用主や職人たちを訪ね歩き、必要な事実を引き出さなければならなかった」と記しています。手作業側の作業が行われた年も単位ごとに異なっています。機械側はすべて1895年ですが、手作業側は1894年、1870年、1853年なのです。さらに決定的な点があります。同じ製品である二つの単位で比率が分かれました。同じ木綿シャツ12ダースなのに、手作業側はどちらも720時間で、機械側は83時間24分と120時間14.1分でした。9倍と6倍に分かれたのです。ただし、この二つを「工場が違うだけだ」と言ってはいけません。報告書を見ると、この二つの単位は手作業を行った年が1870年と1894年で、24年の開きがあります。同じ製品であるにもかかわらず、何が比率を分けたのかはこの調査だけでは見極められないという意味です。

では、この調査において揺るぎないものは何でしょうか。人数です。そして報告書の序文が工場方式を説明した文章が、まさにその方向を指し示しています。速度については述べていません。「品物が複数の手を順に渡っていくが、職人一人はただ一つの工程のみを担当し、それは通常、その品物を完成させるのに要する仕事のごく小さな部分にすぎない。」

ここで覚えること 時間の比率は、誰が何をどの年に測ったかによって揺らぎます。揺るぎないのは、何人が手をかけたかです。

コート一着は何人の手を渡っていったでしょうか

米国労働局が1911年に上院へ提出した調査報告に、この人数が作業場ごとに細かく数え上げられています。調査員たちはコートを作る二つの方式を並べて定義しました。

前の章で見たタスク制がその一つです。報告書はタスク制の特徴を「わずかな熟練工を使い、各自が一連の複数工程をまとめて受け持つこと」と記しました。そのため作業チームの一人ひとりが、担当分野について全般的な訓練と幅広い知識を身につけていなければならないのだと。このやり方では、コート一着は5、6人の手を渡っていきます。

もう一つが「セクション制」です。報告書での定義はこうでした。「タスク制の正反対にセクション制がある。ここでは作業がきわめて細かく分割され、どの労働者も単一の工程だけを行うよう制限される。」 この方式は少なくとも90人から100人、通常はその2〜3倍の労働者を雇う作業場でしか成り立たないと記されています。規模があって初めて成立する方式だったのです。実際に、ある下請け作業場を調査した箇所にこのような記述があります。「作業は高度な分業によって行われる。コート一着は完成までに30人ほどの手を経るが、タスク制の作業場では5、6人である。」 その作業場では週にコート800着ほどを生産しており、下請け業者はセクション制を導入すればタスク制の半分の費用でコートを作れると見なしつつ、週に900着は生産しなければ成り立たないと語りました。

製造業者が自前の工場で直接作る現場では、さらに細かく分かれていました。「ある作業場では、コートが完成するまでに60人の手を経る」と報告書は記しています。服の種類によっても異なりました。ベストは40人から50人の手を渡る工場もあれば、7、8人だけに分担させるやり方も一般的で、ズボンは6工程以下に分けるのが最も一般的でしたが、60工程にまで細分化したところもありました。

1900年の国勢調査も同じ傾向を記しています。「タスク制で20人を雇う作業場なら、工場は200人を雇うだろう。」そして、コート一着を作るのに100人以上が関わる工場もある、と。

ここで覚えること 一着の服が渡っていく手の数は、数え方でブレることはありません。5、6人から30人へ、30人から60人へと増えていきました。

ひとつの動作しか知らない人は、別の服の同じ動作もできません

ここが、このお話の核心です。細かく分割されたのは仕事ではなく、技術だったということです。

1900年の米国国勢調査の文章が、これを一行で言い表しています。「働き手ごとに割り当てられた仕事が限られているため、すぐに熟練して驚くほど素早くこなせるようになるが、それと同時に、その人は衣服の他の部分を作ることができなくなる。」 前半と後半が、まったく同じ一つの文章の中にあります。ひとつの動作しかしないからこそその動作が極めて上手くなり、ひとつの動作しかしないからこそ他のことができなくなるのです。国勢調査は続けてこう記しています。この専門化は、労働者が短期間で仕事を覚えられるようにする一方で、その労働者を製造業者の完全な統制下に置くことになるのだと。服を一着すべて作れる人に対してよりも、服の小さな一部分しか作れない人に対してのほうが、製造業者がより独立した立場でいられるからだと書かれています。

英国の上院委員会が1890年に記録した証言は、さらに具体的です。仕立ての仕事がいくつもの部門に分かれ、作業長や裁断工、仮縫い工、ミシン工、まつり縫い工、ボタンホール工、アイロン工、雑用係が生まれましたが、ある証人は25の工程に分かれていたと証言しました。そして、この一文が出てきます。「分業があまりにも細かく行われているため、コートにアイロンをかけられるからといって必ずしもベストにアイロンをかけられるわけではなく、ベストのアイロン工がズボンにアイロンをかける資格を持たないのも同様である。」 同じアイロンがけであるにもかかわらず、服の種類が変わればできなくなってしまうのです。

職名そのものが動作の名前になることもありました。1900年の国勢調査が襟工場について記述した際の名前がまさにそうです。商標とサイズを刻印する人は「スタンパー」、糊でパーツを貼り合わせる人は「ペイスター」、上と横を縫い合わせる人は「ランナー」、裏返す人は「ターナー」、最後のステッチをかける人は「ステッチャー」でした。そのうち裏返す作業はある程度の熟練と経験が必要だったため、工場の仕事というよりは主に自宅で働く内職の人々が担当していたと記されています。

そして、この流れが後戻りすることはありません。英国上院の報告書にはこのようなくだりがあります。かつてはこの仕事を覚えるのに何年もかかりましたが、一人の人間が極めて細かく分かれた一部分だけを担うようになった今では、短時間で覚えられるようになったと。仕事を覚えるのにかかる時間が短くなったということは、覚えたことの範囲が狭くなったということと同じなのです。

ここで覚えること ひとつの動作が極めて上手くなることと、残りのすべてができなくなることは、同じ一つの文章の中にあります。

それでは、針仕事をする人は減ったのでしょうか

「機械が人に取って代わった」という言葉が、この場面で最もよく出てきます。ですが、一次資料が示している方向は正反対です。同じ服に手を加える人の数は増えました。シャツ12ダースに1人だったものが14人・22人・38人・230人になり、コート1着に5〜6人だったものが30人、60人になりました。

数字が減っているように見える箇所が一つだけあります。アメリカの紳士服工場の賃金労働者が1890年の144,926人から1900年には120,950人へと減りました。ところが同じ期間に事業所数は4,867か所から5,731か所へと、むしろ増えています。国勢調査はこの減少について説明しながら、賃金の一部が雑費項目の請負仕事へと移ったためだと記しました。そして同じ報告書の冒頭には、このような告白があります。調査員たちが服作りが行われている多くの場所から情報を得られず、そうした場所のほとんどが借家や住居の裏手にある小さな作業場だったということです。自宅で働く女性たちが担う分は何人いるのかを突き止めること自体が実行不可能だった、とも記されています。ですから、この2つの数字を引き算して「仕事がこれだけ減った」と計算しては間違いなのです。減ったのは人ではなく、数えられた人なのです。

もう一つ驚くべきことがあります。この時期のミシンは、大半が足踏み式の機械でした。1900年のアメリカの紳士服工場5,731か所のうち、動力を使っていたのは1,519か所で、26.5%でした。1890年には8.3%でした。国勢調査は、ニューヨークでは最も大きな工場にだけ動力が導入されており、建物一つが丸ごと衣服の作業場であるような場所でも、機械を動かす力を操作者自身が出している場合があると記しています。4つのうち3つは動力なしで動いていたということです。仕事を細分化したのは動力ではなく、組織でした。

この時期には、ほかにも様々な物語が重なっています。賃縫いが家の外の仕事だったのが、家庭用ミシンとともに再び家へと戻ってきた話、「ミシンが女性を解放した」を巡って今も決着のついていない議論、職を追われたジャーニーマン仕立職人たちの物語。3つとも事実であり、3つとも長く語るに値する物語ですが、この章の軸はそちらではなく、一人の人間が把握できる範囲のほうにあります。

ここで覚えること 仕事が消えたのではなく、集計から漏れたのです。そして、その仕事を細分化したのは動力ではなく組織でした。

韓国――裁断士、ミシン士、そして統計にない居場所

韓国でも同様の分業があり、その区分が現在の統計文書にどう記録されているかを見ることができます。

国家承認統計である「縫製業者実態調査」の付録には職種分類があります。デザイナー、パタンナー、サンプル職人、裁断士、ミシン士(縫製士)、リンキング士、生産管理者がそれぞれ1つの項目になっています。ところが「シダ(補助・見習い)」は独立した職種ではありません。「その他の繊維関連技能従事者」という項目の説明に「アイロン士(試作品のアイロンがけ)、検査要員、補助(シダ)など」と例示されているだけです。一方でソウル労働権益センターが2025年に発表した実態調査のアンケート用紙は、裁断士、ミシン士、シダ、仕上げ職人を並べて選択肢に置いています。同じ役割を、2つの文書が違った形で数えているのです。

そのソウル市の調査の記述が、本章の軸と正確に重なります。報告書にはこう記されています。「縫製労働者は通常1〜2工程のみを反復して担当し、シダや補助の役割を経て熟練工へと成長する階層化された労働経路がいまも維持されている。」 この一文には先行研究の引用が付されているため、報告書が既存の研究を整理した記述として読むのが正確でしょう。実際の回答を見ると、労働者359人のうちミシン士が218人(60.7%)、裁断士が52人(14.5%)、シダが42人(11.7%)でした。回答者の86.8%が1〜5人の事業所に属していました。

対価を決める単位もこの資料に出てきます。同じ報告書が「客工(キャッコン、出来高払いの外注職人)」をこう定義しています。特定の事業所に所属せず、作業ごとに決定された単価と完成した作業量に比例して報酬を受け取る雇用形態である、と。回答者の34.5%が客工などのその他の雇用形態でした。そして同じ報告書が、2つの事実を併記しています。事業主は固定費を削減でき、客工チームと事業主の双方に利益をもたらし得るという記述が1つ(これも先行研究を引用した部分です)。そして面談から出てきた「本当に10年前にも1,000ウォン(約110円)もらっていて、今もそのままです。工賃は上がりません」という言葉がもう1つです。どちらも同じ報告書の中に収められています。

規模はきわめて小さいものです。2021年基準で全国の縫製業者が29,807社、従事者が120,999人ですから、1社あたり平均4.2人です。ソウルでは回答した業者の85.9%が従事者4人以下で、鍾路(チョンノ)区では97.3%に達しました。従事者の43.7%が50代、36.2%が60代以上です。

ここで覚えること 役割の区分はいまも統計分類に残っています。ある役割は独立した項目になり、ある役割は単なる例示にとどまります。

今、一着の服が渡っていく手は国境を越えています

1900年のアメリカ国勢調査に、こんな一文があります。「コートはニューヨーク市で、ベストはウィリアムズバーグで、ズボンはニューアークで作られることがあり、別々の服は卸売業者のもとに届いたときに一揃いに合わされる。」 請負業者はたいていコートならコート、ズボンならズボンと1種類だけを作り、服を一着まるごと作る作業場を見つけるのは極めて珍しい、とも記されています。

同じ構造が、今では都市ではなく国単位で置かれています。国際労働機関は2025年のブリーフで、アパレル産業だけでも世界で9,000万人を超える人が働き、その75%がアジアにいると記しました。

工場の中での分業も残っています。同じ機関が2017年に出した部門ブリーフは、衣料工場の人的資源の分布をこう記しました。縫製が67%、アイロンがけと仕上げが10%、サンプルと検反が10%、パターンと裁断が8%、トリミングと延反が5%。人員の3分の2がひとつの工程に集中しているのです。そして同じブリーフに、この話の軸をそのまま繰り返すような一文があります。ミシン操作者には正規の教育が求められない一方、裁断機操作者には技術教育が必要である、と。100年前のニューヨークで裁断が製造業者の建物の中に残り、残りが外に出て行ったのと同じ場所に、今も線が引かれています。

ただし、このブリーフの自動化の見通しは予測であった点は断っておきます。ブリーフは自動ミシンが登場すれば縫製工程が代替され得るとみて、ベトナムとカンボジアの衣料部門の労働者の大部分が自動化のリスクにさらされているという推定を掲載しました。その予測が実際にどうなったかは、この調査では一次資料で確認できませんでした。そのため、ここでは予測を予測としてのみ記しておきます。

ここで覚えること 一着の服がいくつもの手を渡っていく構造は消えていません。その手の間の距離が長くなっただけです。

これから何に注目すればよいでしょうか

予測の代わりに、見ておくべき視点を書き留めておきます。四つあります。

一つ目は、1人が担う工程の数です。今回の記事が追ってきた流れがまさにそれです。服一着の丸ごとから複数の工程のまとまりへ、そして再び一つの工程へと絞られていきました。現在の韓国の調査では、縫製労働者が担う工程は通常1〜2個だと記されています。この数字がさらに減るのか、それとも増えるのかを見れば方向性が見えてきます。増える方向へ動いた事例がないわけではありません。小さな作業場では、1人が複数の工程を担わなければならないからです。

二つ目は、対価を決める単位です。服一着なのか、1日分のノルマなのか、週給なのか、作業ごとの単価なのか。この単位が変わるたびに、同じ労働の価値が変わってきました。韓国の客工(ケッコン、歩合制の熟練縫製職人)がいまどの単位の上に立っているのか、その単位が動いているかを見てみてください。

三つ目は、どの工程が次に機械へと渡るのかです。裁断はずっと昔に機械へ移り、ボタンホールも移りました。縫製はまだ人間の手に大きく頼っています。国際機関の資料において、人員の3分の2が縫製に集中しているのがその証拠です。この枠が機械へ移るのか、移るならその人々はどこへ行くのかを見れば、この物語の次の章が見えてきます。

四つ目は、数え方です。百余年前、米国の統計機関は借家の仕事を数え上げることができなかったと自ら記しました。いま韓国の国家承認統計は「シダ(補助・見習い)」を独立した職種として数えていません。何を数えるかが、何が見えるかを決めます。分類が変わるかどうかに注目してみてください。

今回の記事で最後まで決めなかったことが一つあります。ミシンが良いことをしたのか、悪いことをしたのかという点です。その代わりに確認できたのはこれでした。消えたのは縫う人ではなく、1人の人間が服一着の最初から最後までを知っている状態でした。 その人の数はむしろ増え、各自が知っている範囲が狭まっただけなのです。

ここで覚えること 予測ではなく観戦法です。1人が担う工程の数、対価の単位、次に機械へ移る工程、そして数え方。

よくある誤解

誤解

エリアス・ハウがミシンを発明した。

事実

彼の特許第4,750号は表題が「ミシンの改良」であり、5つの請求項は曲がった針とシャトルの組み合わせ、糸を持ち上げる装置、糸を保持する装置、縫い目を締める装置、布を挟んで送るプレートに関するものです。ミシンそのものを発明したという主張はありません。1851年のシンガーの特許第8,294号も表題は同様に「ミシンの改良」で、請求項は3つだけでした。スミソニアン博物館の研究者は、実用的なミシンは一人の天才によるものではなく、1世紀にわたる試行錯誤と部分的な成功の積み重ねの結果であると記し、ハウがミシンを発明しなかったと述べることは彼をおとしめることではないと書いています。

誤解

1831年にパリで仕立職人たちがティモニエのミシンを破壊した。

事実

広く流布している年とスミソニアン博物館の記録は異なります。その記録によると、ティモニエは1830年にフランスの特許を取得し、1841年にパリのある作業場で機械80台で軍服を縫製していた際、仕立職人の群れが押し寄せて機械を破壊しました。彼は一文無しでパリを去り、4年後に新たな資金を得て機械を改良しフランス初のミシン会社を設立しましたが、1848年革命によりその事業も終了しました。ただし本稿ではフランス側の一次資料を直接確認できていません。そのため年を確定させず、「スミソニアンの記録によると」という注記を添えています。

誤解

手縫いだとシャツ1枚に14時間、機械だと1時間余りかかった。

事実

その数値表は、1861年にミシン会社のウィーラー&ウィルソンが自ら行った実験によるものです。標本は手縫い工4人と機械操作者4人で、表のタイトルが「縫製された衣服の時間」であるため、裁断、仮縫い、ボタンホール作り、アイロン掛けの作業は含まれていません。その前年の新聞記事の一文も「シャツに行う縫製は1時間」でした。米国労働省が1898年にシャツ12ダース単位で再測定した際、その比率は6倍から9倍の間であり、同一製品の2つの単位であっても工場が異なるという理由だけで9倍と6倍に分かれました。

誤解

ミシンが導入されて裁縫をする人が減った。

事実

同じ品物に関わる人の数はむしろ増えました。米国労働省の調査では、シャツ12ダースを手作業方式で作った単位は人が1人でしたが、機械方式の同一単位では14人と38人でした。1900年の人口センサスは、タスク制で20人を使うところなら工場は200人を使うだろうと記し、コート1着に100人以上が携わる工場があると報告しました。1911年の労働局調査では、コート1着がおよそ30人の手を経ており、ある工場では60人を経ていました。減ったのは人の数ではなく、一人の人間が把握している工程の数です。

誤解

スウェットショップは労働環境が劣悪な工場のことだ。

事実

当時の定義は工場ではなく請負の連鎖(下請け構造)でした。1900年の米国人口センサスにはこう記されています。「製造業者」と呼ばれる卸売企業が仕事を請負業者に回すと、彼らは自宅や小さな作業場で作業するか、さらに別の請負業者に回すか個人に分配し、各自が契約額と自分が支払う賃金の差額で利益を得ます。製造業者の建物内で行われる作業は、表地と裏地を裁断することだけでした。請負業者になるのに資本がほとんど必要ないことが、競争の重要な要因だったとも記されています。イギリス上院委員会はそうした実態を挙げながらも、「『搾取』に明確な定義を与えることはできない」と表明しました。

つまり ひとことで

ミシン以前、一着の服は一人の人間が最初から最後まで作っていました。イギリス上院委員会が1890年に記録した言葉によれば、適切に訓練された仕立職人は自分の仕事を最初から最後まで知っていました。機械が導入された後、その仕事は何人もの人間による単一の動作へと分割されました。米国労働省が1898年に調査したシャツ12ダース単位では、手作業方式が1人だったのに対し、機械方式は14人と38人でした。1911年の調査では、コート1着がタスク制作業場で5〜6人、区画制作業場で30人、ある工場では60人の手を経ていました。価格を決める単位も服1着から1日分のタスクへ、さらに週給や出来高単価へと移り変わっていきました。広く知られる「手縫い14時間、機械1時間16分」という表は、ミシン会社が手縫い工4人と機械操作者4人で自ら行った実験であり、測ったのは縫製時間でした。米国の統計機関は借家での家内労働を計上できなかったと自ら記しています。確認された事実はこれです。消え去ったのは針仕事をする人ではなく、一人の人間が一着の服を最初から最後まで把握している状態でした。

参考資料

本文の年号と数字は以下の資料に基づいています。誤りを見つけたらお知らせください。

  1. 第13次労働長官年次報告書「手労働と機械労働」第1巻 米国労働省(1899) / セントルイス連邦準備銀行 FRASER 「手」と「機械」の定義、手作業方式のデータを引退者から集めたという序文、シャツ12ダース単位の時間・人員・作業年、紳士服単位の工程別時間をここで確認しました。スキャン原本のためファイルサイズが大きいです
  2. 第12回米国人口センサス 第9巻 第3部「衣類」 米国国勢調査局(1902) タスク制の成立と組編成および賃金、工場式分業、スウェットショップの定義、動力使用比率、カラー工場の職種名、そして借家での労働を把握しきれなかったというセンサス自体の告白
  3. 女性・児童賃金労働者実態報告 第2巻「紳士既製服」(上院文書第645号) 米国労働局(1911) / インターネットアーカイブ タスク制と区画制の定義、コート1着が経た手の数、ベストとズボンの分割度合いを全文テキストで確認しました
  4. 英国上院スウェット労働(搾取労働)調査委員会 第5次報告書(1890) 英国上院 / インターネットアーカイブ 仕立職人が自分の仕事を最初から最後まで知っていたという記述、25工程に及ぶ分業の証言、コートのアイロン工がベストにアイロンを掛けられないという証言、そして「搾取に明確な定義を与えることはできない」という一文
  5. The Invention of the Sewing Machine グレイス・ロジャース・クーパー、スミソニアン国立アメリカ歴史博物館(1968) / プロジェクト・グーテンベルク ティモニエのフランス特許と機械破壊、1861年のウィーラー&ウィルソン比較実験表、工場主の証言の元出展をここで確認しました。実験表の元刊行物はこの調査では確認できていません
  6. The Story of the Sewing-Machine(1860年1月7日付) ニューヨーク・タイムズ / インターネットアーカイブ ウェイバックマシン スナップショット 「紳士シャツに行う縫製」の一文とニューヘイブン工場の機械台数。本社サイトは自動アクセスが制限されているため、保存スナップショットで原文を確認しました
  7. 米国特許第4,750号 — ミシンの改良(エリアス・ハウ) 米国特許商標庁(1846年9月10日) 表題と5つの請求項を直接確認しました
  8. 米国特許第8,294号 — ミシンの改良(アイザック・シンガー) 米国特許商標庁(1851年8月12日) 表題と3つの請求項を直接確認しました
  9. 19世紀後半製造業の「自動化」 — 手労働と機械労働の調査 ジェレミー・アタック、ロバート・マーゴ、ポール・ロード、Journal of Economic Perspectives 第33巻第2号(2019) 1898年調査を電子データ化して再分析した研究。その調査の限界を4点に整理し、工程数が機械方式で大幅に増加したという試算を掲載しています
  10. Advancing Decent Work in Supply chains - Decent Work Challenges and Opportunities in the Textiles and Clothing Sector(2025年3月ブリーフ) 国際労働機関 衣類産業の従事者規模とアジアの割合。ブリーフが自機関の別ページを脚注としているため、信頼度を割り引いて読む必要があります
  11. 技術は仕事と企業をどう変えるか — 衣類部門ブリーフ(2017年4月) 国際労働機関使用者活動局 衣類製造工程の人力分布と、ミシン操作者には正規の学校教育が求められないという記述。自動化の展望は予測であり、その後の実際の結果は確認できていません
  12. 2023年縫製業者実態調査結果報告書(国家承認統計115030) 産業通商資源部・韓国ファッション産業協会(2023年12月) 付録の職種分類(シダがその他項目の例示)、縫製業者数と従事者数、ソウルの4人以下事業者の比率、従事者の年齢分布を確認しました。協会のホームページは koreafashion.org です
  13. ソウル市衣類縫製業従事者の社会安全網強化に向けた実態調査および政策策定研究 ソウル労働権益センター(2025年11月30日) 縫製労働者が通常1〜2工程を担当するという記述、客工(出来高払いの外部職人)の定義、職務・規模・雇用形態の分布、工賃に関する聞き取り調査の引用
  14. 企業沿革ページ シンガー(Singer) 「手作業で14時間、シンガーなら1時間16分」という文言が現在も掲載されている場所です。この説が今も流通している事例としてのみ引用しました
作成 2026-09-06 更新 2026-09-06 検証 2026-09-06