定義
症状がまだ出ていない人や、最後まで出ない人が、他の人に病気をうつしてしまう現象のことです。体内ではすでに病原体が増殖して体外へと排出されているのに、外見上は何の異変も現れていません。本人も感染に気づかないため、普段通りに生活している間に周囲へ広がってしまいます。
体調は悪くないのに、どうやって人にうつしてしまうのでしょうか?
感染症にかかると、激しくせき込んだり高熱が出たりするものだと考えがちです。せきやくしゃみのように派手に飛び散るしぶき(飛沫)こそが、病気を広げる主犯だと思われているからです。
しかし、私たちが日常的に交わす会話や、鼻から吐き出す静かな息の中にも、目に見えないほど微小なしぶきが絶えず混ざり合って出ています。のどや鼻の粘膜に潜り込んだウイルスは、わざわざせきをしなくても、息をするだけで空気中へと静かに抜け出していくことができます。
そもそも症状が出るのは、ウイルスそのものの攻撃だけでなく、私たちの免疫システムが侵入者と激しく戦うことで生じる炎症反応によるものです。免疫が静かに対処していたり、まだ本格的な戦闘を始めていなかったりしても、体内ではすでにウイルスが大量に複製され、目に見えない微細な飛沫に乗って外へと飛び出していくことがあるのです。
ここまでは呼吸でうつる病気のお話です。便などを介して広がる病気など、別の経路をたどる感染症でも同じ現象が起きますが、その場合は体外へ出ていくルートが異なるだけです。
無症状伝播が感染症対策を難しくする理由
無症状での感染拡大がある感染症は、防ぎ止めるのがひときわ困難です。天然痘はそうではありませんでした。人にうつし始めるのは発疹が出る少し前の発熱期からで、何の症状もないまま感染を広げることはほとんどありませんでした。そのため、体調の悪い人を見つけ出して隔離し、その周囲の接触者にワクチンを接種するという方法で感染の連鎖を断ち切ることができたのです。
しかし、外見を見て判断する道具は、無症状の前では役に立ちません。サーモグラフィーも体温計も、熱などの症状がある人を見つけ出すためのものだからです。そのため、監視の方法も症状に頼らないアプローチへと移っていきます。下水を調べて病原体が混ざっていないか確認したり、症状がない人まで幅広く検査を行ったりするような方法です。感染した本人も体調が悪くないため、普段通りに飲食店へ行き、電車やバスを使い、いつもの日常を過ごしてしまいます。
結局、誰が感染を広げているのかを目で見分けることができないため、具合の悪い人だけを隔離する方法では連鎖がなかなか断ち切れません。だからこそ、予防や対策も症状に頼らない方向へと設計されるのです。症状がなくても接触した可能性のある人を探して検査・隔離を行ったり、全員に一律の感染対策を求めたりするのはこのためです。
より正確に言うと:「完全な無症状」と「発症前伝播」
医学的には、この現象を「完全な無症状病原体保有者からの感染(無症状伝播)」と「発症前伝播(プレシンプトマティック伝播)」の2つに厳密に分けて区別します。どちらも一見すると元気そうに見えますが、病気の経過にははっきりとした違いがあります。
「完全な無症状」とは、ウイルスに感染して体内で増殖し、治るまでの間、せきや発熱といったつらい症状を一度も経験しない状態を指します。一方の「発症前伝播」は、数日後に本格的な症状が現れるものの、症状が出る少し前からすでに体外へ病原体を排出し、人にうつしてしまうケースです。
病気によっては、発症の直前が最も体外へのウイルス排出量が多くなることもあります。自分が病気にかかっているとは夢にも思っていない状態で最も多くウイルスをまき散らしてしまうという、危険な逆説が生まれるのはこのためです。
ここで「潜伏期間」と混同しないことが大切です。潜伏期間とは「いつ症状が出るか」を測る時計であり、「いつから人にうつし始めるか」はそれとは別に考えるべき問題です。発症前伝播は、後者の時計が前者の時計よりも先に鳴り響いてしまった状態と言えます。
火種の例えはここまで有効です。煙が出る前にも異変が進行しているという点は同じです。ただ、火種はいつか必ず煙を上げますが、完全な無症状の場合は最後まで煙が出ないまま終わるのです。
よくある誤解
無症状感染者は体内にウイルスがほとんどいないため、人にうつす危険性はない。
外見上は元気そうでも、体内では症状が出ている人と変わらないほど活発にウイルスが増殖していることがあります。会話や呼吸をするだけでも人にうつす可能性があります。平均的には有症状者よりも感染力が低いという研究が多いものの、リスクがゼロになるわけではありません。
無症状伝播があるということは、潜伏期間中に病気をうつすという意味である。
この2つの言葉は測っているものが異なります。潜伏期間は「感染してから症状が出るまで」を測る時計であり、「いつから他人にうつし始めるか」は別個に捉えるべき問題です。潜伏期間が終わる前からうつす病気もあれば、症状が最後まで出ないままうつすケースもあります。
空港や建物の入り口で検温を行えば、感染を広げる可能性のある人を漏れなく防げる。
検温はすでに症状が出ている人を見つけるための方法です。症状がまだ出ていない人や、最後まで出ない人はその網にかかりません。そのため、こうした感染症では症状の有無に頼らない監視体制へと切り替える必要があります。
日常で出会う場面
せきや熱が全くない状態で家族と食事を囲み、知らないうちにウイルスをうつしてしまうケース
発熱などの症状が出る数日前に友人たちと集まり、後からその場でうつしていたことが判明する状況
ポリオ(小児麻痺)のように感染者の大半が無症状で過ぎてしまう病気で、発症者だけを数えても感染がどこにどれほど広がっているか把握できないケース
つまり ひとことで
症状がない、あるいはまだ出ていない状態でも他人に病気をうつしてしまう現象です。人にうつし始める「時計」が、症状が出る「時計」よりも先に鳴ってしまう病気で起こります。