定義
私たちが日常で使う言語が、世界の捉え方や記憶の仕方に影響を与えるという仮説です。言語によって色や方角などを区切って呼ぶ「枠の数」が異なります。そのため、何に素早く気づき、何を長く覚えているかにも少しずつ差が生まれると考えます。思考そのものを完全に閉じ込めるという「強い解釈」と、認識に一定の偏りを与えるだけという「弱い解釈」があります。
48色の色鉛筆を持つクラスメイト
図工の時間に、隣の席の子が48色の色鉛筆を取り出し、自分が12色の色鉛筆を取り出したと想像してみてください。2人とも同じ空を見て描いています。隣の子は水色、空色、青緑を塗り分けますが、自分はそのすべてを1本の青で塗るかもしれません。
自分の目が悪いわけではありません。目には3つの青の違いがはっきりと見えています。ただ、手元の箱にその名前の枠がないため、色を選ぶときに一瞬迷い、あとから説明するのも少し手間がかかるだけです。
言語もこの色鉛筆の箱によく似ています。ある言葉には青と緑をひとまとめにする枠があり、別の言葉には淡い水色だけを特別に呼び分ける枠があります。手元にある枠の形が異なると、世界を切り取る境目も少しずつ変わってくるのです。
このように、言葉が思考に影響を与えるとする見方を「サピア=ウォーフの仮説」と呼びます。
色鉛筆がなければ、その色は見えないのでしょうか?
ここで意見が大きく2つに分かれます。「強い立場」は、12色の箱しか持たない人は青緑という色そのものを思い浮かべることすらできない、と主張します。言葉が思考の檻になるという意味で「言語決定論」と呼ばれます。
一方、「弱い立場」の考え方は違います。箱にない色でも目には見えますが、名前がついている色のほうが素早く見つけられ、長く記憶に残りやすいというものです。この緩やかな見解は一般に「弱い言語相対性」と呼ばれます。ちなみに言語相対性仮説は、サピア=ウォーフの仮説全体を指す別名としても使われます。
現在の言語学で広く支持されているのは、この「弱い解釈」です。12色の色鉛筆しかなくても、私たちは色を混ぜて新しい色を作れますし、「淡い水色」のように言葉を組み合わせて説明できるからです。言語は思考を閉じ込める檻ではなく、慣れ親しんだ近道のようなものなのです。
色だけでなく、方角を表す言葉もよく例に挙げられます。左右(右・左)を使わず、常に東西南北の絶対的な方角だけで位置を表現する言語が存在します。そうした言葉を話す人々は、見知らぬ土地にいても常に方角を意識する習慣が自然と身につきます。
もう少し正確に言うと
色の名前に関する実験では、実際に小さな差が確認されています。似た2つの色が自分の言語で別の名前で呼ばれている場合、その2色を見分ける反応速度がわずかに速くなります。同じ名前で括られる2色同士では、そうした差はほとんど現れません。しかし十分な時間を与えられれば、誰であってもその2色をきちんと区別できます。
「イヌイットの言葉には雪を表す単語が何百もある」という話も広く知られていますが、これはかなり誇張された話です。単語の数え方(語幹だけを数えるのか、接尾辞がついた派生語まで数えるのか)によって数が大きく変わるからです。ひとつのエピソードだけで仮説全体が証明されるわけではありません。
違いが生じるということと、閉じ込められるということは別物です。色鉛筆の数が少なければ作業が少し遅くなるだけで、描きたい絵の内容まで決められてしまうわけではありません。それに、色鉛筆はいつでも買い足せます。新しい言葉を学べば、思考の傾きもまた変わっていくのです。
よくある誤解
自分が話す言語に単語がなければ、その概念そのものをまったく考えることができない。
単語がなくても、人間はその違いを見て感じ取ることができます。ただ、名前がある概念のほうが素早く認識でき、記憶に残りやすいという程度の差が現れるだけです。
サピアとウォーフの2人が共同でこの仮説を発表した。
2人が共同でこの名称の単一の仮説を発表したわけではありません。師であるサピアと弟子のウォーフが残した論考を後世の学者たちがまとめて呼んだものであり、「強い解釈」は2人の本来の主張よりも誇張された側面があります。
日常で出会う場面
水色と青をまったく別の単語で明確に呼び分ける言語を話す人は、2つの青系を見分けるときの反応速度がわずかに速くなります。
日本語で「黄色」「山吹色」「からし色」のように細かく色を呼び分けることで、微妙なニュアンスの違いを相手に伝えやすくなります。
つまり ひとことで
話す言葉が思考を完全に閉じ込めるわけではないものの、何に素早く気づき、何を記憶しやすいかという「偏り」を与えるとする仮説です。