飛行機が着陸して機内アナウンスが終わると、ポケットの中のスマートフォンが勝手に時刻を変えます。誰も触っていないのに、画面の数字が1時間戻っています。私たちはこれを当たり前のことだと思っています。地球を縦に区切ったマス目があり、その境界を越えれば時刻が変わるのだと。
ですが、そのマス目は空に描かれているわけではありません。人間が合意して引いた線です。その上、この線は太陽が実際に頭上へと昇る時刻と、わざとズレるように作られています。ソウルと釜山では太陽が最も高く昇る時刻が数分違いますが、二つの都市の時計は同じ数字を指しています。そのズレをみんなで受け入れようと決めた約束こそが標準時なのです。
一つ不思議な点があります。この約束を変えるのに、物質的なコストはほとんどかかりません。工場を新しく建てたり箱を新しく作ったりする必要はなく、時計の針を回すだけで済みます。それにもかかわらず、定着するまでに数十年がかかり、国によっては今でも変えたり戻したりを繰り返しています。なぜそうなったのかを知るには、都市ごとに時計が違うのが当たり前だった時代へと戻らなければなりません。
ひと目でわかる年表
鉄道が推し進める
- 1840 グレート・ウェスタン鉄道、全駅でロンドン時刻を採用
- 1847 イギリス鉄道運賃清算所がグリニッジ時刻を推奨
- 1852 グリニッジ天文台、電信線を通じて時報の送信を開始
国家が定める
- 1868 ニュージーランド、政府が全国で標準時を施行
- 1879 スウェーデン、東経15度を国家標準に設定
- 1880 イギリス、法令上の時間の定義に関する法律を制定
大陸と世界
- 1883 アメリカ・カナダの各鉄道が正午を2回迎える
- 1884 ワシントン国際子午線会議、7つの決議を採択
法が後を追う
- 1911 フランス、「グリニッジ」という言葉を使わずにグリニッジ時刻を採用
- 1918 アメリカ標準時法 — 鉄道の体系が連邦法になる
- 1961 韓国、標準子午線を再び東経135度に変更
現在
- 2024 カザフスタン、2つの時間帯を1つに統合
都市ごとに時計が違うのが当たり前だった時代
昔の人々は時計を太陽に合わせていました。太陽が空で一番高く昇った瞬間を正午とするのです。このやり方は、どんな村でも使うことができました。棒を1本立てて、影が最も短くなる時を見ればよかったからです。
ただ、太陽が南中する時刻は場所によって異なります。東にある村が先に正午を迎え、西の村は少し遅れて迎えます。経度がほんの少し違うだけでも値が変わってしまうのです。さらに、地球が自転する速度は季節によって少しずつ揺らぐため、実際に太陽が南中する瞬間をそのまま使うと、1日の長さがまちまちになってしまいます。そこで1年間の平均をとって均一な1日を使う方式が定着し、これをその地域の地方平均時と呼びます。
大切なのは、これが不便ではなかったという点です。隣の都市まで丸1日かかるような時代には、数分のズレなど目立ちません。到着してその都市の時計を見れば、それがその場所の時刻でした。村ごとに時計が違うのは故障ではなく、正確な状態だったのです。狂った時計という概念そのものがありませんでした。
時計を合わせる方法も村ごとにありました。広場の大きな時計を見たり、鐘の音を聞いたり、港に設置された報時球(タイムボール)が落ちるのを見ればよかったのです。時計や眼鏡を作る職人が、自分の店の前にその地方の時刻を掲げておくこともありました。時刻とは、村が自分たちで管理する日々の営みだったのです。
この平和は、何かが人間より速くなった瞬間に崩れました。列車が、数分のズレを目に見えるものにしてしまったからです。朝出発した列車が昼前にいくつかの都市を通過すると、それらの都市の時計が互いに違うという事実がすぐに問題になります。出発時刻がどの都市の時刻なのかを決めなければ、時刻表を使うことができません。
1841年、イギリスのグレート・ウェスタン鉄道の時刻表には、このような案内が記されていました。この鉄道のすべての駅ではロンドン時刻を用い、ロンドン時刻はレディングより約4分、バースとブリストルより11分、ブリッジウォーターより14分早い、と。乗客は時刻表を読みながら、自分の街の時計が列車とは違っているという事実を知ったのです。
ここで覚えること 時計がバラバラであることが問題になるには、まず人間より速いものが現れなければなりませんでした。
時刻を作った場所と、広めた場所は違っていました
1840年11月、グレート・ウェスタン鉄道がすべての駅でロンドン時刻ひとつだけを使うことに決めました。地域ごとに異なっていた地方平均時をひとつに統一した、初期の記録です。理由は単純でした。列車の時刻表を作るには、出発駅と到着駅が同じ時計を見なければならなかったからです。
ほかの会社もすぐに追随しました。1847年には、複数の鉄道会社の精算などを担っていた業界組織である鉄道清算所が、すべての駅でグリニッジ時刻を使うよう勧告し、その年の暮れにはイギリスの鉄道全体がその時刻へと移行しました。このとき付けられた呼び名が鉄道時間でした。政府が決めたのではなく、業界自身が定めた規格だったのです。
ところが、その時刻を生み出したのは鉄道ではありませんでした。グリニッジ王立天文台でした。1852年に天文台へシェパード・モーター時計が設置され、門に掛けられた時計が、一般の人々にグリニッジ時刻を直接示した最初の時計となりました。その時刻は電信線を通じてロンドンやエディンバラ、グラスゴーといった都市へと届けられました。駅長たちはグリニッジから送られてくる電信信号を見て、駅の時計を合わせたのです。時刻を定めたのは鉄道でしたが、時刻を作り出して運んだのは天文台と電信でした。
1855年ごろには、イギリスの公共時計のほぼすべてがグリニッジ時刻に合わせられていました。市庁舎や教会の時計に至るまでです。ですから、この時点でイギリスは事実上ひとつの時刻を使う国になっていました。ただし法律は別でした。法的な文書に書かれた時刻は、依然として各地域の地方平均時として解釈されていたのです。
この食い違いを整理したのが、1880年8月2日に制定された法律です。名称は『法令上の時間の定義に関する法律』で、条文はたった2つしかありません。前文はこう始まります。「法令や証書に現れる時間の表現が、グリニッジ時刻を指すのか各地域の平均天文時を指すのかについての疑義を解消することが妥当であるため――」。国が行ったのは新しい時刻を作ることではなく、誰もがすでに使っていたものを法律の言葉で書き写すことでした。
ここで覚えること 誰もが使っていることと法律が認めることの間には、30年以上の隔たりが生じることもあるのです。
「世界初」がひとつではない理由
標準時の話で最も食い違いが生じやすいのが「最初」という言葉です。まったく異なる出来事が同じ名前でひとくくりにされてしまうからです。軸を切り分けると、主役がそれぞれ変わってきます。
ひとつの鉄道会社が自社の路線全体でひとつの時刻を使ったことを最初とするなら、1840年のイギリスのグレート・ウェスタン鉄道です。一国の鉄道各社が合意して共通の時刻へ移行したことを挙げるなら、1847年のイギリスの鉄道清算所です。ここまでは鉄道会社同士の約束事です。
政府が国全体にひとつの標準時を施行したことを最初とするなら、答えは変わります。1868年11月2日のニュージーランドです。ニュージーランド政府の百科事典には、これが政府によって全国規模で標準時が施行された世界初の事例だと記されています。ただしニュージーランドが選んだ値は、グリニッジより11時間30分早い時刻でした。1時間の整数倍ではなかったのです。
そのため、軸がもうひとつ分かれます。グリニッジから整数の時間分だけ離れた値を国の標準としたことを最初とするなら、1879年1月1日のスウェーデンです。東経15度の時刻を国全体で使うことに決め、これが今私たちが使っている1時間刻みの枠の形になりました。法律で明確に定めたことを挙げるなら、1880年のイギリスです。
アメリカが先行している軸は別にあります。ひとつの大陸を複数の枠に分け、その枠を一斉に同じ日にスタートさせたことです。それが1883年11月18日です。それまでの事例はすべて「ひとつの国にひとつの時刻」でした。複数の枠をひとつの体系に束ねたのはアメリカが初めてであり、今私たちが地図で目にする縦縞の模様はここから生まれました。
最後の軸は国際合意です。1884年にワシントンで開かれた会議がそれにあたりますが、この会議が何を決議したのかは、世間で広く知られている話とはかなり異なります。それについては後で原文を紐解いてみることにしましょう。
軸をこのように切り分けると、互いに元祖を争っていた国々がそれぞれしかるべき場所に収まります。ですから、修飾語のない「最初」は、この話においてほぼ決まって間違った文になってしまいます。 何についての最初なのかを添えてこそ、答えがひとつに定まるのです。
ここで覚えること 「最初」をいくつかの軸に切り分けることで、後から出てくる国々が争うことなく、それぞれ本来の場所に収まります。
ニュージーランドの時計を動かしたのは、列車ではなく電報でした
標準時の物語は、たいてい鉄道から始まります。しかし、政府が国全体の時刻を初めて定めた国では、その引き金が違っていました。
その頃、ニュージーランドは島中に電信線を敷設している最中でした。1868年1月頃には、非マオリ人口22万人のうち約74%が電信を使えるようになっていました。ところが、南端のインバーカーギルと北島のネイピアでは、地方時が34分もずれていたのです。電信局ごとに開局・閉局の時間をそれぞれの地方時に合わせていたため、急ぎの電報が翌日にようやく届くという事態が起きました。
そこで逓信大臣のジョン・ホールが立ち上がりました。彼には自治権を持つ地方議会に命令する権限はありませんでした。しかし、電信局と郵便局は自分の管轄だったのです。1868年1月、彼はすべての電信局に対し、ウェリントン平均時で開局・閉局するよう指示しました。郵便局も同じ建物に入っていることが多かったため、自然とそれに従いました。人々はその時計が正確であることを知っていたため、自分の時計もそれに合わせるようになったのです。
反発はオタゴから起こりました。当時、最も裕福で人口が多かった地域です。現地の新聞は、ウェリントンの決定を統治者たちの気まぐれと呼びました。さらに事態を悪化させる手違いもありました。ダニーデンの人々は時計を20分進めるよう案内されましたが、実際に正しい数値は17分だったのです。オタゴが掲げた論理は自治権だけではありませんでした。ウェリントンは国の真ん中ではないため、そこの時刻を基準にすると他の都市のズレがさらに大きくなる、という主張でした。押し切られそうになった側の反論にも、ちゃんとした計算があったのです。
1868年9月2日、下院で決着がつきました。ダニーデン選出の議員がクライストチャーチの時刻を採用しようと動議を出し、ホールが「クライストチャーチ」を「ニュージーランド」に変える修正案を提出したのです。政府の科学者ジェームズ・ヘクターが東経172度30分を推奨しましたが、この線はクライストチャーチのすぐ西側を通っています。結果として、オタゴ側の主張がほぼ受け入れられた形となりました。10月31日に官報へ掲載され、11月2日正午、ウェリントンの時計と全国の時計が一斉に12時を打ちました。ニュージーランドは1946年1月1日に、この基準を東経180度へと再び変更することになります。
ここで覚えること 「国ではなく鉄道だった」という常識の最初の綻びが、ここで生まれます。ここでは電信であり、動いたのは大臣でした。
正午が2度訪れた日
アメリカは事情が違いました。国土がはるかに広く、鉄道もはるかに多かったのです。
標準時以前の北アメリカには、144を超える地方時がありました。鉄道会社はそれぞれ本社がある都市の時刻で列車を運行しており、1880年代初頭でも鉄道時刻が80ほどありました。駅の待合室には会社ごとに異なる時計がいくつも掛けられていました。乗客の懐中時計は、そのどれとも合っていなかったのです。
解決策を提案した人は何人もいました。チャールズ・ダウドが1870年に国を4つの区分に分ける案を小冊子で発表し、カナダの鉄道主任技師サンフォード・フレミングが1876年に24時間制に基づく国際共通時刻を提案しました。1879年にはクリーブランド・アッベの提案で標準時委員会が作られましたが、その理由は意外にも天気予報でした。観測時刻がまちまちでは予報を作ることができないからです。
ここで見落とされがちな重要な点があります。アメリカ議会図書館法律図書館の記述によると、統一された時刻を求める圧力が高まるにつれ、鉄道会社は政府が介入して自分たちの利益を削るのではないかと心配し、そのため自ら案を作ったのです。 鉄道が国を先導したのではなく、国が手を入れるのを先手を打って防ごうとした、という話です。
1883年10月11日、シカゴのあるホテルで鉄道会社の集まりである一般時刻協議会がウィリアム・アレンの案を採決で採択しました。西経75度、90度、105度、120度の時刻を1時間ずつずらして使うことにしたのです。施行日は11月18日の正午でした。その日、多くの都市で正午が2度訪れました。まず太陽がもたらす正午がやってきて、時計の針を戻したあとに鉄道が定めた正午が再びやってきたからです。
誰もが歓迎したわけではありませんでした。インディアナポリスのある新聞は、これからは人々が鉄道時刻に合わせて結婚し、鉄道時刻に合わせて死ななければならないだろう、と書きました。太陽や月や星も鉄道協議会の命令を無視してみるだろうが、結局は屈服するだろう、と。誇張ではありましたが、その新聞が突いた核心は本物でした。いまや1日の目盛りを刻む側が会社であるという事実です。
ここで覚えること 鉄道が先に動いた動機のひとつは、国家の介入を先手を打って防ぐことだった、という記述があります。
ワシントン会議はタイムゾーンを作っていません
広く知られている話が一つあります。1884年にワシントンで開かれた国際子午線会議が、世界を24のタイムゾーンに分けたというものです。イギリスの鉄道インフラを管理する会社のホームページにもそう書かれています。ところが、議事録の原本を開いてみると、違う話が出てきます。
会議は1884年10月1日にアメリカ国務省で始まり、採決には25カ国が参加しました。採択された決議は7つです。本初子午線を一つだけ置くこと、それをグリニッジ天文台の子午線とすること、経度はそこから東西に180度ずつ数えること、「万国日」を採用すること、万国日は本初子午線の平均真夜中に始まり0時から24時まで数えること、天文日と航海日も真夜中に始まってほしいこと、角度と時間の十進分割の研究を再開してほしいこと。7つのどこにもタイムゾーンはありません。
むしろ逆と言っていいほどです。4番目の決議には但し書きがついています。万国日は便利だと認められる用途に用いられ、必要な場所で地方時や他の標準時を使うことを妨げない、というものです。オスマン帝国の代表はこの但し書きを確認して初めて賛成しました。自国では日が沈む瞬間を一日の始まりとして数える方式が、農作業や祈りの時刻と結びついているため捨てられない、と説明しながらです。
タイムゾーンに最も近づいた案もありました。イギリス代表のストレイチーが最後の会期で提出した決議案で、地球を巡る子午線を10分またはその整数倍の間隔で置き、時刻を数えようという内容でした。しかし彼は採決を求めませんでした。全員の見解に合う正確な表現を見つけるのが極めて難しく、どうせ地方時刻を定めることは各地域に委ねるべきだという理由で、自ら撤回しました。ロシア代表も15度間隔の24の子午線といった案に言及しましたが、各国がまだ検討していない以上、意見を出すのは難しいと述べました。
では、グリニッジはなぜ選ばれたのでしょうか。会議に提出された表がその根拠でした。当時すでに世界の船舶トン数の72%がグリニッジ基準で経度を測っており、残りの28%が10の子午線に分散していました。利用者が多いほうに合わせるのが、乗り換えコストが最も少なかったのです。フランス代表はまさにその点を指摘しました。グリニッジの唯一の長所はその周囲に集まった利害関係であって、科学的な理由ではない、と。フランスは本初子午線の採決で棄権しました。
ここで覚えること 会議が決めたのは経度の0度と万国日でした。いま私たちが使っている枠は、その後に国ごとに別々に引いたものです。
先に変えた側が損をするのに、誰が代価を払ったのか
標準時は不思議な代物です。変えるのに「モノ」はほとんど必要ありません。コンテナの規格を変えるには箱を新しく作らなければなりませんが、時刻なら針を回すだけで済みますから。それなのに定着するまでに何十年もかかりました。理由は、コストがモノではなく合意にあったからです。
アレンが1884年のワシントン会議に提出した文書に、この構造がそのまま記されています。鉄道経営者は大衆が使っていない時刻を自分の路線で使おうとはしません。乗客が理解できないからです。逆に大衆は、日常の習慣を大きく変えるような時刻を受け入れようとはしません。アレンは、この態度は不合理だと主張することはできても、それが事実であり無視することはできない、と付け加えました。双方が相手が先に動くのを待っている状態だったのです。
標準がこのような性質を持つのは、使う人が増えるほど価値が大きくなるからです。自分ひとりだけ違う時刻を使えば近所とずれて損をし、みんなで一緒に使えば得をします。だからこそ、誰かが「誰も使っていない時刻を先に使う」という損を引き受けなければなりません。アメリカでは鉄道がその代価を払いました。案を作った後、鉄道会社の社員たちが自治体を訪ね歩いて説得し、新聞各紙は時計の合わせ方や新たな時間帯の区分地図を掲載しました。
いったん定着すると、今度は逆の力が働きます。施行から11か月後の1884年10月9日、アメリカとカナダの鉄道経営者たちがフィラデルフィアに集まり、ワシントン会議へ送る決議を満場一致で採択しました。内容は、基準子午線をグリニッジ以外の場所に移さないでほしいというものでした。移してしまうと自分たちの標準子午線が整数の度数からずれてしまうのですが、別の標準に変えるには、取り付けるのが極めて困難な量の立法が必要になるというのがその理由でした。標準が定着するのに1年もかからなかったのです。
押し出された側にも同じ力が働きました。フランスは1884年に棄権した後、1911年3月9日になってようやく法律を改正します。その条文が実に興味深いのです。フランスの法定時は「パリ平均時から9分21秒遅らせた時刻」と書かれています。計算すればグリニッジ時刻と同じですが、条文に「グリニッジ」という言葉は一度も登場しません。フランスの法律が協定世界時を直接の基準としたのは、1978年の施行令からでした。アメリカも同じように遅れました。鉄道が作り上げた体系が連邦法となったのは1918年3月19日のことで、タイムゾーンの境界を定める権限は州間通商委員会へと移りました。
ここで覚えること この章の経済ロジックです。コストが安いからといって早く変わるのではなく、みんなで一緒に動かなければならないものほど遅く変わるのです。
時計は今も静かに場所を変えています
標準時は一度決まればそれで終わりかと思いきや、そうではありません。朝鮮半島の基準子午線は4回変わりました。国家記録院(韓国の公文書管理機関)の整理によると、1908年4月1日に東経127度30分と定められ、1912年1月1日に東経135度に変更され、1954年3月17日に再び127度30分に戻り、1961年8月7日に135度へと戻ってきました。変わるたびに根拠となる法令が個別に作られました。標準時は技術の問題であると同時に、誰が決めるのかという問題でもあったのです。
公式な標準時を使っていない場所もあります。インド・アッサムの茶園では、公式の時刻より1時間進んだ時計を使っています。イギリス統治時代から続く慣習です。インドは国全体でひとつの標準時を使っていますが、東の端と西の端では日の出の時刻に約2時間の差があるのです。2018年、インド国立物理研究所の研究陣は、国を2つの標準時に分けようという案を学術誌に発表しました。面白いのは境界線の選び方です。鉄道駅が少ない区間なので列車の時刻を手作業で管理できるという理由で、西ベンガルとアッサムの境界が選ばれました。タイムゾーンの境界と鉄道の関係は、今も終わっていません。
反対の方向へ進んだ国もあります。カザフスタンは2024年3月1日、2つの時間帯をひとつに統合し、協定世界時より5時間早い時刻に統一しました。政府が挙げた理由のひとつは、もともと使っていた時刻が実際の太陽時と合っておらず、生体リズムによくないというものでした。ところが東部では、冬に日が沈むのが早くなりすぎてしまいました。オスケメンでは冬至の頃の日没が午後3時30分頃になったのです。2024年12月、調査機関デモスコープの世論調査では統合に反対するという回答が53%、賛成が22%で、同じ月にアスタナ裁判所は東部の住民が起こした訴訟を棄却しました。
時計と太陽がずれる代償は、実際に測定されることもあります。2019年に発表されたある研究は、アメリカのタイムゾーンの境界に着目しました。境界の両側は生活様式が似ているのに、時計だけが1時間違います。この研究は、夕方に自然光が1時間長くあると、平均睡眠が19分減ると推定しました。どの枠に入るかが、人々の1日に実際に影響を及ぼしているということです。
欧州連合(EU)では、また別の種類の膠着が見られます。2018年9月12日、欧州委員会が季節ごとの時間変更を廃止しようという提案を出しました。パブリックコメントには約460万件が寄せられ、そのうち84%が廃止に賛成しました。ところが加盟国がどの時刻に固定するかをめぐって合意できず、提案は足踏み状態となりました。変えようという点では意見が一致したものの、どこに変えるかでまとまらなかったのです。
ここで覚えること 今起きている議論も、結局は同じ構図です。誰が先に、どちらへ動くのか。
次の場面はどこを見ればいいでしょうか
未来を当てる必要はありません。代わりに、この物語が教えてくれたルールに照らし合わせて、どこを見ていれば時計の針が動くのをいち早く察知できるのか、そのポイントだけを整理してみましょう。
第一に、誰がコストを払うのかを見てください。標準を変えるには、誰も使っていない時刻を真っ先に使い始める側が必要です。アメリカでは鉄道がそのコストを払い、ニュージーランドでは郵便局と電信局が払いました。今、ある国で時間帯の議論が持ち上がっているなら、そのツケを払えるだけの組織があるかを見ることから始めればいいのです。
第二に、元に戻すコストを見てください。標準は定着するまでに時間がかかりますが、一度固まってしまうと元に戻すのにも時間がかかります。アメリカの鉄道各社が導入から1年も経たずに「変えるには再び立法が必要だ」と語ったようにです。ある提案が出たときに実際に動くかどうかを見極めるには、その提案がどれほど素晴らしいかよりも、どれほど多くの法律やシステムに再び手を入れなければならないかを数えるほうが確実です。
第三に、自然とのズレがどこまで耐えられるかを見てください。標準時はそもそも太陽とズレることを前提にした約束事です。スウェーデンは導入初期、国内で30分を超えるズレを受け入れました。問題はそのズレがどこまで許容されるかです。カザフスタン東部の早い日没や、インド北東部の早い日の出は、その限界線の境界で起きている出来事なのです。
第四に、合意の形を見てください。欧州連合(EU)の事例が示すように、変えること自体には多数が賛成していても、どこに変えるかで意見が分かれれば何も起きません。標準とは多数決ではなく、一点へと収束させる問題だからです。今後ある国が時間帯に手を加えようとするなら、その国が目指す着地点を一つに絞り込めているかを見ればよいのです。
最後に、もう一つだけ。この物語において時刻を変えた側も、守った側も、決してくだらない理由でそうしたわけではありませんでした。オタゴは自分たちの地域が軽視されていると感じ、オスマンの代表は礼拝の時刻を守らねばならず、フランスは自国の標準子午線を譲り渡すことを科学ではなく力(権力)の問題だと見なしました。時計の針を回すこと自体には、モノとしての費用はほとんどかかりません。それにもかかわらず、人々がこれほど長く争い続けた理由がここにあります。
ここで覚えること 予測ではなく観戦法です。誰がコストを払うのか、元に戻すコストはいくらか、どこまで耐えられるか、目標は一つか。
よくある誤解
1884年のワシントン会議が世界を24の時間帯に分割した。
議事録原文で採択された決議は7つであり、時間帯を定めたものは1つもありません。定められたのは、基準子午線を1つ置くこと、それをグリニッジとすること、経度は東西に180度ずつ数えること、万国日を採択すること、万国日は基準子午線の平均真夜中に始まり0時から24時まで数えること、天文日と航海日も真夜中に始まれば望ましいこと、角度と時間の十進分割の研究が再開されれば望ましいこと、ここまでです。第4の決議には、必要な場所で地方時や他の標準時を用いることを妨げないという但し書きが付いていました。時間帯に最も近かったイギリス代表の決議案は採決に付されることもなく、提案者自ら撤回しました。
標準時を初めて使ったのは1883年のアメリカの鉄道である。
何における「最初」かによって答えは変わります。1つの鉄道会社が路線全体で単一の時刻を用いたのは1840年のイギリス・グレート・ウェスタン鉄道、1国の鉄道群が合意して共通の時刻を採用したのは1847年のイギリス鉄道運賃清算所です。政府が国全体に標準時を施行した事例としては1868年のニュージーランドが世界初として記録されており、グリニッジから整数時間離れた値を国の標準に定めたのは1879年のスウェーデンが先です。アメリカが先駆けたのは、大陸を複数の区域に区切り、同日同時刻に一斉に導入した点にあります。
時間を統一したのは国家ではなく鉄道である。
半分は正解です。イギリスとアメリカでは鉄道が先に動き、法が追いついたのはそれぞれ33年後、35年後でした。しかし、ニュージーランドで引き金を引いたのは電信であり、命令を下したのは郵政長官でした。スウェーデンの標準時は国王の命令によるものでした。時刻そのものを生成して配信した機関も鉄道ではなく天文台でした。そしてどの国においても、最後に時間帯の境界線を引いたのは法律でした。
鉄道が先に乗り出したのは、国家が時間の問題に関心がなかったからである。
アメリカの場合は、むしろその逆だったという記録があります。米議会図書館法律図書館は、統一された時刻を求める圧力が高まる中、鉄道各社が政府の介入によって収益が損なわれることを懸念し、自ら案を作成したと記述しています。標準時の策定を急いだ動機の1つは、国家の介入を先回りして防ぐことにあったというわけです。
標準時を変更するのに、時計の針を回す以外にかかるコストはない。
新しい物品を作る必要がないという点ではその通りです。だからこそ、かえって奇妙な事態が生じます。実質的に無料同然であるにもかかわらず、イギリスでは事実上の標準と法的な標準が30年以上も乖離したままでしたし、フランスは1884年に棄権した後、法を改めるまでにさらに27年を要しました。不整合な時刻を使うことの代償も試算されています。アメリカの時間帯境界を利用した2019年の研究では、夕方の自然光が1時間増えるごとに平均睡眠時間が19分減少すると推計されています。
つまり ひとことで
標準時とは、時計を太陽の動きにあえてズラして合わせる約束事です。イギリスとアメリカでは鉄道が先にこの約束を作り出し、法はそれぞれ33年後、35年後に後を追いましたが、ニュージーランドでは電信が契機となり、命令を下したのは郵政長官でした。1884年のワシントン会議は、一般に知られているのとは異なり、時間帯を作ってはいません。採択された7つの決議は基準子午線と万国日を定めたにすぎず、時間帯に最も近かった決議案は採決にすら至らず撤回されました。変更に物品をほとんど必要としない規格であるにもかかわらず定着に数十年を要した理由は、単独で変えれば損をし、全員で一斉に変えてこそ得をする性格のものだからです。これと同じ構図が、現在もインドやカザフスタン、欧州連合で繰り返されています。
参考資料
本文の年号と数字は以下の資料に基づいています。誤りを見つけたらお知らせください。
- 国際子午線会議議事録全文(1884年10月、ワシントン) 国際子午線会議 / プロジェクト・グーテンベルク電子化 採択された7つの決議と採決、撤回されたストレイチー決議案、アレンが提出したアメリカ施行報告、船舶トン数表、フランス・オスマン代表の発言
- Whose Time is it Anyway? アメリカ標準時間帯の短い歴史 アメリカ議会図書館法律図書館 (In Custodia Legis) 地方時の数、ダウド・フレミング・アッベの提案、1883年協議会、政府介入の懸念、インディアナポリスの新聞の引用
- ニュージーランド標準時 NZHistory / ニュージーランド文化遺産省 ホール郵政長官の指示、オタゴの反発、1868年の下院決議、ヘクターの勧告、官報告示と施行
- ニュージーランド平均時 — Te Ara 百科事典 Te Ara: The Encyclopedia of New Zealand (ニュージーランド政府) 政府が全国規模で標準時を施行した世界初の事例であるという記述、子午線東経172度30分
- グリニッジ平均時(GMT)とは何か、なぜ重要なのか Royal Museums Greenwich (グリニッジ王立博物館) 1847年の鉄道運賃清算所の採択と「鉄道時刻」、1850年代半ばの公共時計、シェパード時計と電信時報
- 鉄道時刻180年 Network Rail (英国鉄道インフラ公社) 1840年11月のグレート・ウェスタン鉄道によるロンドン時刻の採用と1841年の時刻表の文言、電信を通じた駅時計の同期
- 法令上の時間の定義に関する法律(1880) legislation.gov.uk / イギリス国立公文書館 1880年8月2日制定。前文と2つの条文の原文
- 合衆国法典第15編第261条 — 標準時間帯(沿革注釈を含む) アメリカ政府出版局 (govinfo) 1918年3月19日の標準時法、1966年の統一時間法、その後の改正沿革
- フランスの法定時 Observatoire de Paris (パリ天文台) 1911年3月9日の法律の文言と1978年の施行令における協定世界時基準の定義
- 今月の記録 — 韓国の標準時間変更 国家記録院 1908・1912・1954・1961年の基準子午線の変更と根拠法令
- インドにおける2つの標準時の必要性と施行方案 Current Science 115巻7号 (2018)、インド国立物理研究所 東西の日の出の差、提案子午線と境界線、茶園の非公式時刻、境界を鉄道駅が少ない場所に設定すべきだという記述
- Sunset time and the economic effects of social jetlag Journal of Health Economics 65 (2019), Giuntella & Mazzonna アメリカの時間帯境界を利用した推計。夕方の自然光1時間あたり睡眠が19分減少
- カザフスタン、3月1日から単一時間帯へ Interfax 2024年3月1日施行、以前の2つの時間帯と統合基準、政府決定の根拠
- カザフスタンの時間帯変更をめぐる反発 RFE/RL 東部の早い日没、2024年12月のデモスコープ世論調査、アスタナ裁判所による訴訟の却下
- 季節的な時刻変更の廃止指令案 — 立法進捗状況 European Parliament 2018年9月12日の提案、意見公募の回答規模と賛成割合、理事会で停滞した経緯