会社は社名が変わっても存続します。オーナーが変わっても、社長が変わってもです。会社にお金を出した人が世を去ってもその持分は残り、会社が倒産してもその人が出資した以上の金額を弁済する必要はありません。
あまりに当たり前に見えて、まるで自然法則のように感じられますよね。ですがこの4つの特徴は、それぞれ異なる時代に、異なる理由で、一つずつ別々に追加されたものです。あるものは法に定められた通りに生まれ、あるものは法に定められた規定が守られなかったことで生まれました。
守られなかったことで生まれた側のほうが、より奇妙です。400年前のある会社の設立文書には、10年後に出資者たちにお金を返還すると明記されていました。そのお金は結局返還されませんでした。そして、まさにそこから、いま私たちが知る会社の形が現れたのです。
ひと目でわかる年表
持分の始まり
- 1372 トゥールーズの水車小屋が統合され、持分を分け合う
特許状の時代
- 1600 イギリス東インド会社、特許状により法人となり承継権を得る
- 1602 オランダ特許状 — 資本を10年間固定する
- 1610 保有していない株式の売却(空売り)を禁止する
- 1622 返還されるはずの資本が戻らない
- 1623 株主が初めて帳簿を閲覧する委員会を得る
バブルと禁止
- 1720 南海会社が破綻し、泡沫法が制定される
- 1776 アダム・スミス、「他人の金を管理する人々」
- 1825 泡沫法の廃止 — 「事実上の死文であった」
法が開いた道
- 1855 イギリス有限責任法 — 特権が手続きとなる
- 1883 『漢城旬報』「会社説」が会社を説明する
- 1899 大韓天一銀行 — 朝鮮人のみが株式を売買できた
現在
- 2024 全世界の上場企業46,086社、機関投資家が47%
会社はなぜ人より長生きするのか
今私たちが「会社」と呼んでいるものは、実のところいくつかの仕掛けをひとまとめに束ねた代物です。その仕掛けを一つずつ外してみると、それぞれがかなり風変わりな発想であることに気づかされます。
経済史の研究者たちが近代の株式会社を形づくる特徴として挙げるのは、5つあります。
1つ目は法人格です。会社が株主とは別個の存在として扱われます。会社自身が契約を結び、訴訟を起こし、会社の名義で財産を持ちます。2つ目は永久資本です。事業が一度終わるたびにお金を分け合って解散するのではなく、資本が会社の中に残り続けます。3つ目は持ち分を他人に譲渡できることです。株主が代わっても会社はそのままです。4つ目は出資する人と事業を行う人が分かれていること、5つ目は会社が倒産しても株主は投じたお金の分までしか失わないことです。
この5つが一体となった組織を、経済史の研究者たちは「制度的ブレイクスルー」と呼びます。ヨーロッパの二つの東インド会社がその代表例としてよく挙げられます。ところが、この5つを実際に解剖した研究は異なる結論を出しました。オランダ側の会社を扱ったある論文は、この会社の形態が先見の明というより設計上の欠陥を取り繕う中で生まれたと記しています。結論の一文はこうでした。法的な形式が経済的な機能の後に従ったのであって、その逆ではなかった、と。
つまり、誰かが机の前に座ってこの5つを最初から設計したわけではないのです。問題が起き、その場しのぎで塞ぎ、その応急処置がそのまま固まりました。その順番をたどっていくのが、この物語です。
順番をたどるべき理由はもう一つあります。5つが付け足された順番によって、誰が得をし、誰がリスクを負うのかが変わったからです。資本を縛り付けておけば出資者は身動きが取れなくなり、持ち分を譲渡できるようにすればその足かせは再び解かれます。会社が倒産しても投じたお金の分しか失わないとなれば、お金を貸した側がその分リスクを余計に背負います。仕掛けが一つ加わるたびに、重心がどこかへと移っていきました。この物語で常に問い続けなければならないのは、そのことです。この仕掛けが加わることで、誰のリスクが増えたのか。
その前に、まず確かめなければならない問いがあります。この5つが初めて揃った会社は、一体どこだったのでしょうか。この問いへの答えは、実は一つではありません。
ここで覚えること 5つの特徴がいつ、どんな順序で付け足されたのかが物語の骨組みです。設計図というよりは、修理の記録に近いのです。
「最初の株式会社」は何の「最初」なのか
この問いは、何の「最初」なのかを明らかにしなければ答えが出ません。軸が少なくとも4つあるからです。
1つ目の軸は、持分を分割して保有し、その持分を自由に譲渡でき、会社が株主とは別個の法的存在として扱われる組織です。ここではフランス・トゥールーズの水車製粉会社が一歩リードしています。ガロンヌ川の浅瀬にあった製粉所は1071年の記録に初めて登場し、1248年には12基が稼働していました。これらの製粉会社が1372年に合併して「オノール・デル・バザクル」となりました。持分はユショー、株主はパリエと呼ばれ、設立当初は80株でした。研究チームはこの会社を記録に残る最も初期の株式保有法人と呼び、持分が完全に譲渡可能で、所有権を移転する際に会社の承認を必要とせず、14世紀から法廷がこの会社を株主とは別個の法的主体として扱っていたと記しています。1384年には合併に加わらず残っていた製粉所2カ所を新株16株と交換し、96株になりました。研究チームはこれを初期の企業買収事例と呼んでいます。
2つ目の軸は、国家から特許状を受けて法人となった貿易会社です。ここではイギリスが一足先です。1600年12月31日の特許状は、カンバーランド伯と「その他215名」をひとつの法人組織とし、継承権を認めました。そして喜望峰の先からマゼラン海峡までの貿易を、15年間にわたりこの会社にのみ許可したのです。オランダの会社はそれより1年余り後になります。
3つ目の軸こそが、今回の本題です。航海が終わるたびに清算して解散するのではなく、資本が会社に残り続ける会社です。ここではオランダが先んじているのですが、その理由が少し奇妙なのです。4つ目の軸は、特許状や個別の法律なしに登録だけで有限責任を得られる会社ですが、これには19世紀のイギリスまで待たなければなりません。
ですから、修飾語なしに「最初の株式会社」と言ってしまうと、それは4つの異なる話をひとまとめにした言葉になってしまいます。 まずは3つ目の軸から見ていきましょう。
ここで覚えること 「最初」は軸を定めてこそ答えが出ます。ここで軸を4つに分けておかなければ、この先で混乱してしまいます。
リスクを分ける仕組みは、その前からありました
オランダ東インド会社が設立される前にも、アジアへ船を送り出す会社がありました。国立公文書館はこうした会社を「先行会社」と呼んでいますが、その資金集めの方法は次のようなものでした。
1回の航海に必要な資金を、その都度集めます。船が無事に戻ってくると、出資者たちは自分が出したお金を利益の分け前とともに返してもらいます。次の航海に再び出すかどうかは、その時に改めて決めます。船が沈没すればみんなで少しずつ損を分け合い、無事に戻ってくればみんなで少しずつ利益を分け合います。リスクを分ける仕組みは、すでにここにありました。 今日の分散投資と呼ばれる発想と根っこは同じです。
ところが問題がありました。これらの会社同士が激しく競争したことで利益率が削られ、出資者たちが手を引こうとしたのです。統合が必要だという議論は持ち上がったものの、地域ごとの利害が対立してなかなかまとまりませんでした。結局、統合は自発的には実現しませんでした。国立公文書館にはこう記されています。「政府が強制した」と。共和国はスペイン・ポルトガル国王と戦争中であり、一つに統合された会社はその戦いにおいて強力な軍事・経済的武器になり得たからです。
1602年3月20日、連邦議会が特許状を交付しました。有効期間は21年、喜望峰の東側とマゼラン海峡の西側へ船を送り貿易を行えるのは、この会社だけと定められました。そして資本に関しては、こう記されていました。これからは1回の航海ごとではなく10年間資金を固定して預かり、その10年の間に複数の艦隊を派遣し、1612年に出資者たちへそれまでの利益とともに出資金を返還して、次の10年分を新たに募集する、と。また、アジアから届いた品物を売ったお金が当初の投資額の5%に達したら、直ちに配当せよという条項もありました。
ですから、1602年に新しかったのはリスクを分けたことではありません。すでに分散して散らばっていた資本を10年間つなぎ留めたことだったのです。それも、一時的なものとしてでした。
ここで覚えること 世間に広まる説明が、ここで揺らぎます。新しかったのは、資本を分ける方向ではなく、つなぎ留める方向です。
返すはずだったお金が戻ってきませんでした
1612年がやってきました。そして、お金は戻ってきませんでした。
特許状を保管しているオランダ国立公文書館は、自らのアーカイブ目録の序文にこう記しています。10年後の資本返還は行われなかった、と。最初の投資金は、会社の存続期間のすべてを通してそのまま残った、と。そして、もう一文付け加えられています。特許状を発行した連邦議会が、取締役たちがこの条項を守らないことの肩を持った、と。
株主たちも黙ってはいませんでした。特許状の更新がかかった1622年頃、大きな抗議が巻き起こりました。配当と資本返還の条項が守られないこと、取締役たちが財務に関してオープンな姿勢を見せないこと、取締役たちが会社の金で私腹を肥やしているという疑念のためでした。連邦議会は特許状をさらに21年延長するにあたり、ささやかな譲歩をしました。国立公文書館の表現を借りれば、実質的な変化は起きませんでしたが。
なぜこうなったのかは、想像に難くありません。アジアに要塞を築き、商館を置き、船を絶え間なく就航させ続けるには、常にお金が必要でした。10年ごとに資本を清算しては集め直すという構造では、到底立ち行かなかったのです。国立公文書館は、返還条項が「資本の蓄積を不可能にし」、それゆえ取締役たちはこの条項を守るのではなく破る道を選んだ、と記しています。
先の論文が「つぎはぎ」と呼んだのは、まさにこうした場面のことです。会社が人よりも長く生きる構造は、誰かが発明したというより、守られなかった条項がそのまま固まってできたものに近いのです。その後、この会社は配当を現金の代わりに別の物で支払うことさえありました。香辛料で配ったこともありますし、1679年には初めて、まだ満期を迎えていない債券で支払いました。会社が抱える借金を証書にして、配当代わりに手渡したようなものです。
ここで覚えること 制度は守られた条項からではなく、守られなかった条項から生まれることもあるということ――本編で最も重みのあるくだりです。
「他人の金を管理する人」という問題
資本が会社に固定されると、新たな問題が生じました。お金を出した人はそのお金を取り戻すことができないのに、そのお金を使う人は別にいるという問題です。
1602年の特許状が定めた仕組みはこうでした。理事の職は終身でした。新しい理事を選ぶにあたって、株主には何の影響力もありませんでした。理事が帳簿を開示する義務は、10年が経って最初の決算を行うときに初めて生じました。国立公文書館の記録には、理事たちについて「義務はほとんどなく、そのわずかな義務すら厳格には守られなかった」と記されています。株主が会社の内部で何が起きているか知ることができない状態、つまり情報の非対称性が制度そのものに組み込まれていたのです。
報酬の仕組みはさらに際立っています。特許状は理事の報酬を二通りに定めました。船を仕立てるのにかかった費用の1%、そして持ち帰った品物を売って得た利益の1%でした。利益だけでなく支出にも報酬が連動していたという意味です。多く使えば使うほど、それだけ多く受け取れました。損失は出資者が負い、報酬は規模に応じて増える仕組みを、今日ではモラル・ハザードと呼びます。
安全策が全くなかったわけではありません。理事は会社の株式を一定額以上保有していなければなりませんでした。アムステルダム商会とゼーラント商会は6,000ギルダー、小さな商会は3,000ギルダーで、これは一種の担保と見なされました。自分のお金も賭けさせたわけです。その代わり、理事は会社が抱えた負債に対して個人的には責任を負いませんでした。
応急処置はその後に施されました。1623年に主要株主による3種類の委員会が作られました。一つは会計監査人で、最初の特許状が終了した1622年に初めて提出された総勘定を監査しました。もう一つは理事のポストに空きが出た際に招集され、理事たちとともに3人の候補者名簿を作成し、9人は17人理事会の会議に出席して勧告できるようになりました。理事の任期も3年と定められましたが、すぐに守られなくなり、大抵は死ぬまでその座に留まりました。1647年には1%の報酬規定そのものが廃止され、固定給へと変更されました。アムステルダム商会の理事が年3,100ギルダー、ゼーラントが2,600ギルダー、小さな商会が1,200ギルダーでした。
経営者の報酬を何に連動させるべきか。400年前にも答えを探そうと2回見直されました。
ここで覚えること お金を出した人と使う人が分かれることで生じる問題が、ここで一気に現れます。後に登場する制度のほとんどは、その対応策なのです。
発言できないなら、売れるように
株主が取締役を選ぶことも、帳簿を見ることもできなかったとしたら、株主に残された力は何だったのでしょうか。ひとつだけありました。「出て行く力」です。
この会社の持分は「アクティ(Actie)」と呼ばれました。額面は決まっておらず、国立文書館の表現を借りればいつでも譲渡できました。売却したり、交換したり、担保に入れたりすることができました。譲渡する際は帳簿担当者の前で取締役が1〜2名立ち会って署名し、移転証明書を作成しました。会社に対して物申す代わりに、市場に向かって売ること――株主が持っていた最初の権利はこちら側でした。
誰がこの持分を買ったのかは、実際の帳簿が物語っています。1602年8月のアムステルダム商会の資本登録簿が国立文書館の史料室で公開されていますが、そこには最大の出資者イサーク・ル・メールの8万5,000ギルダーがあり、同じ帳簿に市場の下女フリーチェン・デルクスの60ギルダーがあります。職業欄に「下女」と記された人々の名前も見られます。特許状は、共和国に住む人なら誰でも出資できるようにし、金額に制限を設けませんでした。
取引はすぐに活発になりました。どれほど活発だったかは、規制の歴史が雄弁に物語っています。1610年、連邦議会は自分が実際に保有していない株式を売ることを禁止しました。国立文書館はこれを世界初の株式取引に対する国家介入と記しています。翌年の1611年には、アムステルダムに証券取引所が建設されました。
この時代の紙が1枚、今も残っています。1606年9月9日、エンクホイゼン商会のピーテル・ハルマンスゾーンが最後の分割払込金150ギルダーを納めたという受領証です。現在確認されている中で最も古い株式であり、2010年にユトレヒト大学の学生リューベン・スハルクがウェストフリース・アーカイブで論文資料を探していて発見しました。紙の内側には1650年までに受け取った配当が記されています。配当金がいくらになるかは17人取締役会が毎年あるいは数年ごとに決め、香辛料で支給された年もありました。
お金を出した人はとうの昔にこの世を去りましたが、その人が受け取った配当の記録が紙に残り、今もアーカイブにあります。会社は人間より長く生きるという言葉がどのような姿をしているのか、この1枚の紙が物語っています。
ここで覚えること 発言権の代わりに退出権。株主の力がどちらにあったのかが、後の制度をめぐる論争へとつながっていきます。
特許状が同時に手渡したもの
ここで、この物語の最も重い部分へと進みます。貿易会社がどのようにして統治の権限を持つようになったのか、です。
答えは持ち分の構造ではなく、文書にあります。1602年の特許状は会社に対し、アジアに要塞を築く権限、兵士を雇用する権限、アジアの統治者と条約を結ぶ権限、裁判官を任命する権限を与えました。ただ、これらの権限がどのように使われるのかは特許状に書かれていませんでした。国立公文書館は、1602年の時点では会社の海外権限がどのように拡大していくかを見通すことはまだ不可能だっただろう、と記しています。1600年のイギリスの特許状も、同じ種類の排他的な権利を含んでいました。権限の出所は持ち分を分け合った形式ではなく、国家の委任でした。
権限はまもなく組織となりました。1609年、理事たちはアジアにおける最高指揮権を総督に委ねることにし、評議会を置きました。1619年にはジャワの港湾都市ジャカトラの跡地に、国立公文書館の表現を借りれば「数多くの戦闘の末に」バタヴィアが建設され、総督と評議会の本拠地となりました。
その後に起きたことは、数字で記します。サープリス博物館の記録によると、1621年のバンダ諸島では、4月末に1,200人が島の外へと運び出され、そのうち約800人がバタヴィアへ移送されました。5月8日には、尋問を生き延びたオラン・カヤ、つまり世襲の首長44人が全員有罪とされて処刑されました。7月中旬までに捕虜となった人は476人で、当時の推定では約2,500人が飢えと困窮で亡くなりました。数千人が島を脱出したと見られ、少なくとも1,500人がセラム島南岸に辿り着きました。総督が狙ったのは、この香辛料の完全な独占でした。
国立公文書館は、1622年のバンダ諸島征服によって会社がナツメグとメイスの独占権を得たと記しています。丁子はさらに時間がかかりました。会社はモルッカ諸島の島々から丁子の木を引き抜いて処分し、栽培をアンボン島に集中させ、1667年にマカッサルが陥落したことで、会社の外部から丁子を買うことができた最後の港を手中に収めました。その間、1602年から1700年までにこの会社の船に乗ってヨーロッパを離れた人は31万7,000人でした。
同じ時期に、同じ5つの要素を備えた別の会社がもう一つありました。トゥールーズの製粉会社です。持ち分が完全に譲渡可能で、法廷が株主とは別個の実体として扱ったその会社は、小麦を挽いていました。違いを生んだのは会社の形式ではなく、特許状に何が書かれていたかでした。
ここで覚えること 因果関係を形式ではなく委任に求めるべきところです。同じ形式が、別の場所では製粉所を動かしていました。
バブルの後に作られた禁止法は、どれほど機能したのか
舞台をイギリスに移しましょう。こちらでは会社が国債と絡み合い、話の展開が変わってきます。
イングランド銀行はその沿革の中で、1711年に南海会社が設立され、それが「政府の銀行であり国債の保有者であるイングランド銀行の地位を脅かした」と記しています。そして1720年にこの会社が国債の一部を引き受けたことで、株価が大きく跳ね上がったと書かれています。同じ沿革の次の文章はこう続きます。株式への投資熱風が巻き起こったものの、やがて株価は暴落し、数千人が破産したと。後になって経済バブルを語る際、ほぼ必ずと言っていいほど引き合いに出される場面です。
その年に、いわゆるバブル法が制定されました。国王の特許状を受けていない合資会社の設立を禁止する法律でした。一般にはこの法律がイギリスの会社制度を1世紀もの間凍結させたと言われがちです。ですが、この法律を廃止した際の記録を見ると、実情は少し違っていました。
1825年6月2日、イギリス下院で廃止が議論されました。法務長官はこの法律の文意が到底理解しがたいものであり、立法者の意図を確認することは不可能だったと述べました。そして1720年に制定されて以来、事実上形骸化しており、10〜12年前までこの法律による訴追はなかったと語りました。ハスキソン議員は、商業の利益が合資会社に対する適切な奨励と保護を求めていると発言しました。ある大学の研究も、この法律による起訴がほとんどなかった点を挙げ、抑制効果は誇張されてきたと見ています。もっとも、特許状がなければ自由に流通する株式市場を利用しにくかったという制約そのものは存在しました。
禁止が緩やかだったその時期に、問題の本質を的確に言い表した人物が現れました。1776年、アダム・スミスは『国富論』の中で、株式会社の取締役について「自分のお金ではなく他人の金を管理する人々」と記しました。そのため、自分の資産を守る共同経営者のように細心の注意を払って見守ることは期待しがたく、富豪の執事のように些細なことに気を配ることは主人の名誉にそぐわないとして見過ごしてしまうのだと。それに続く文章が「怠慢と浪費は、そうした会社の経営において常に多かれ少なかれ現れざるを得ない」というものでした。同じ箇所で彼は、株主の大半は会社の事業を理解しようとせず、取締役が決める配当をただ受け取るだけだとも記しています。
そして、もう一文を残しました。株式会社では、各出資者が自身の持ち分の範囲内でのみ責任を負う、と。この一文が、次の章の出発点になります。
ここで覚えること 禁止の効果を誇張せず見据えるとともに、この物語の核心的な問題に名前が付けられた場面です。
有限責任に反対した人々にも理由がありました
アダム・スミスが1776年に書き残したように、有限責任そのものは19世紀の発明ではありません。1602年の憲章にも、取締役は会社の借金に対して個人的に責任を負わないと記されていました。19世紀のイギリスで変わったのは、それを得る方法でした。
それ以前は、国王の特許状や個別の法律が必要でした。1844年に共同出資会社法が制定され、一定の要件のもとで会社設立が合法化され登記所も置かれましたが、1856年の議会の議論には、その手続きがまったく無駄なものだったと判明したという回顧が残っています。仮登録の会社の証書も、本登録の会社のものと同じように実際に流通してしまっていたからです。
1855年の夏、有限責任法を巡ってイギリス議会で激論が交わされました。まずは反対派の主張から見ていきましょう。ストラット議員は、この法律によって損失の可能性は制限され、利益の可能性は制限されないまま商売に飛び込むことになると述べました。現代の言葉で言えば、モラルハザードを一言で言い当てたのです。スプーナー議員は、軽率で不誠実な投機へと人々を誘い込む罠であり欺瞞だと批判しました。上院ではセント・レナーズ卿が、10ポンドの株式に20%だけ払い込めば250〜300ポンドにしかならない資本でも1万もの会社を設立できるとし、もっともらしい事業説明書で人々の貯金をかき集める会社を危惧しました。
最も実務的な反対論を展開したのはカードウェル議員側でした。株主がまだ払い込んでいない株金、つまり後から会社が請求できる未払込残高こそが、会社にお金を貸した側を守る安全装置だというのです。会社が返済できなくなっても、その残高を回収して債権者に渡すことができるからです。有限責任を拡大すれば、その安全装置が薄くなってしまうという指摘でした。実際、会社にお金を貸して債権を持っている側にとっては、無視できない問題だったのです。
賛成派の意見も一言で要約できます。ボール議員は、わずかな資本しか持たない個人は単独では何も成し遂げられないが、その少額のお金を集めれば巨大な資本が生まれると述べました。上院ではグランヴィル伯爵が、商取引の世界をいつまでも不確実な状態にしておくべきではないと主張しました。
法律は可決されました。翌年の議会記録に残る要約によると、25人の共同事業者が資本の4分の3を保有し、各自が20%を払い込んで証書を作成すれば、有限責任が付与された登録証明書を受け取れるという内容でした。1856年には共同出資会社法が再制定され、実質的な価値のなかった予備的な手続きが取り除かれました。特権だったものが手続きになったのです。 反対していた人々が懸念した問題が消え去ったわけではなく、その問題は今なお会社法の重要なテーマであり続けています。
ここで覚えること 押し切られた側の理由を書き留めるパートです。債権者を誰が守るのかという問いには、当時答えが出ませんでした。
韓国には別の扉から入ってきました
この制度が韓国に入ってきたルートは、また異なります。船でも特許状でもなく、「翻訳」でした。
1883年、朝鮮で会社設立を促す文章が登場しました。兪吉濬(ユ・ギルジュン)の『商会規則』は全25条からなり、株式の発行と出資、社長の選出方法、株主総会、本社の機構と支社の設置を扱い、会社の役員選出や貸借対照表の公開、利潤の分配まで規定していました。同年10月21日付の『漢城旬報(ハンソンスンボ)』に掲載された「会社説」は、会社をこのように説明しました。多くの人々の資本を集め、数名に委託して農工商の事務を処理させるものだと。所有と経営の分離を韓国語へと移し替えた一文です。
実際に設立された例もありました。1883年に元山(ウォンサン)に商会所、1885年に仁川(インチョン)に商会、1890年に釜山(プサン)に商法会社が生まれ、甲午改革までに文献に現れる商会社は40余りあります。ただし、韓国史データベース「我が歴史ネット」は、これらの会社について慎重な評価を下しています。伝統的な特権商人である都賈(トゴ)と質的な違いはなく、一種の同業組合的な性格だったというのです。一部の大商人が会社を立ち上げて中小商人に端境を出資させつつ、出資しない商人の商行為を排除して該当商品を独占的に買い占める手法だったためです。形式は会社でありながら、実質は独占組合だったわけです。
1899年には大韓天一銀行が設立されました。「我が歴史ネット」は1月29日に34名の発起人総会を経て発足したと記し、国家記録院は1月30日に商人層を中心として設立された株式会社だと記しています。公称資本金は5万6,000ウォンで、112金に分けられ1金が500ウォンでした。1株当たりの金額が他の銀行の10倍だったため、株主になれる人は事実上制限されていました。国家記録院の記録によると、高宗皇帝が創立資金の54%を支援し、皇太子である英親王が筆頭株主として記録されています。
この銀行の定款には、ひときわ目を引く条項が一つありました。朝鮮人以外には株式の売買ができないという制限です。持分の自由な流通こそがこの制度の核心的な装置であるにもかかわらず、ここではその流通を国籍によって塞いでいたのです。外部から流入する資本を警戒した結果でした。その後、1909年に資本金を15万ウォンから50万ウォンへと増資する中で度支部(朝鮮末期の財務官庁)が最大株主となり、1912年2月11日に朝鮮商業銀行へと名前が変わりました。1924年に朝鮮実業銀行と合併し、1950年に韓国商業銀行、1999年にハンビッ銀行を経て、2002年に現在の名前(ウリィ銀行)になりました。持ち主も名前も何度も変わりましたが、法人としては受け継がれてきたのです。
1855年にイギリス議会で債権者保護を理由に反対に遭ったあの原則は、現在、韓国商法第331条に一文として収められています。株主の責任は、その有する株式の引受価額を限度とする、と。法制処の説明によれば、会社が返済すべき負債が保有資産を上回っていたとしても、株主が会社の債権者に対して代わりに返済する責任はありません。
ここで覚えること 制度は移植したからといって、そのまま根づくわけではありません。形式と実質が乖離する地点を見極めることこそが、この章の役割です。
何を見ていればいいのか
未来を当てようとする必要はありません。代わりに、この物語が教えてくれたことに照らして、どこを見ていれば局面が動くのをいち早く察知できるのか、その点だけを整理してみましょう。
まず今の規模からです。OECDの集計で2024年12月末、全世界の上場企業は46,086社、時価総額を合算すると124兆5,360億ドルで対GDP比112.7%です。韓国は2,499社で1兆5,510億ドル、対GDP比82.9%で、2021年12月より企業数が6%増えました。同機関の要約資料は、2005年以降に全世界で3万5,000社が上場を去ったと記しています。入ってくる会社と出ていく会社が共にあるのです。
第一に見るべきは、株を誰が持っているかです。同じ集計で、全世界の上場株式の47%は機関投資家の持ち分です。400年前に帳簿に60ギルダーを記した女中がいたとすれば、今の株式の半分近くは他人の金を預かって運用する組織が握っています。所有と経営の間にもうひとつの層ができたわけです。 韓国は構成が異なります。機関投資家が17%で、代わりに他の企業が保有する割合が27%と世界平均の9%より大きくなっています。国ごとに株主の顔ぶれが異なれば、監視のあり方も変わってきます。
第二は、株主が行使できる力がどちら側にあるかです。この物語を通じて、株主には常にふたつの道がありました。社内にとどまって声を上げる道と、持分を売って立ち去る道です。1602年には後ろ側だけが開いており、1623年に前側が少し開きました。今でも制度が変わるときは、おおむねこのどちらの扉を広げるかという問題なのです。
第三は、会社が会社ではないものとどのように絡み合うかです。南海会社は国債と絡み合うことで規模が膨らみましたし、この物語で会社の立ち位置を変えてきたものは、大抵は会社の外側にありました。戦争中の政府の要請、どこの港を誰が握るのか、債権者を誰が守るのかという法律、そして翻訳された一文といったものです。
最後に、もうひとつだけ。1372年にトゥールーズで製粉所が集まって作った会社は、1888年に火災に見舞われた後、水力発電会社へと業種転換し、1910年に別の会社と合併してパリ証券取引所に上場され、1946年にフランスの他の電力会社とともに国有化されて幕を閉じました。574年間のことでした。その間、株主は無数に入れ替わり、業種も変わりましたが、会社は続いたのです。研究チームが集めたデータでは327の年度の配当利回りを算出でき、平均は年5%前後、長期の実質株価上昇は0に近くなっていました。小麦を挽いて分け合う営みが574年間にわたって続いたという記録です。
同じ仕掛けが、ある場所では水車を回し、ある場所では島ひとつの人口を変えてしまいました。その違いがどこから生じたのかを、この物語を通じてずっと見てきました。次にこの制度を変えるものも、おそらく会社に関するニュースではない場所にあるはずです。それがどこなのか、見届ける価値は十分にあります。
ここで覚えること 予測ではなく観戦法です。誰が持っているのか、どちらの扉が開くのか、会社の外側で何が動いているのか――この3点だけを見ていればよいのです。
よくある誤解
オランダ東インド会社が世界初の株式会社である。
何をもって「最初」とするかによって答えは変わります。国家の特許状によって法人化され承継権を得た貿易会社としては、1600年12月31日のイギリス東インド会社が先んじています。持分を分割所有し、その持分が会社の承認なしに譲渡可能で、裁判所が会社を株主とは別個の実体として扱った組織としては、1372年のトゥールーズの水車小屋会社がはるかに先行しています。オランダ東インド会社が最も早いのは「航海が終わっても資本が会社に残り続ける会社」という点ですが、それすら当初の設計ではなく結果にすぎませんでした。
株式会社は航海のリスクを複数人で分担するために作られた。
リスクを分担する仕組みはそれ以前から存在していました。オランダ国立公文書館の記録によれば、それ以前の先行諸会社は航海ごとに資本を募り、船が帰港するたびに出資者は拠出した資金を利益配分とともに返還されていました。1602年の特許状が行ったことは、その返還周期を10年に延ばしたことであり、実際にはその返還すら行われませんでした。分割することではなく、資本を拘束し縛り付けた点こそが新しかったのです。
資本が会社に残り続ける構造は1602年の特許状が設計したものである。
特許状では、1612年に出資者へ利益と共に出資金を返還し、その後の10年分を改めて公募することになっていました。オランダ国立公文書館は「10年後の資本返還は行われなかった。最初の投資金は会社の全存続期間を通じてそのまま残った。特許状を発行した連邦議会は、取締役たちがこの条項を守らないことを支持した」と記しています。
有限責任は1855年のイギリスで初めて生まれた。
1602年の特許状でも取締役は会社の債務に対して個人的に責任を負わないと定められており、アダム・スミスは1776年に、株式会社では各出資者が自身の持分の範囲までしか責任を負わないと記しています。1855年に変化したのは、それを取得する方法です。それ以前は国王の特許状や個別の法律が必要でしたが、要件を満たして登記・登録するだけで認められるようになったのです。
1720年の泡沫法がイギリスの株式会社を1世紀にわたり凍結させた。
1825年の廃止論議においてイギリス下院で法務長官は、この法律の趣旨は到底理解しがたいものであり、1720年以降は事実上の死文となっていて10〜12年前まで訴追すら行われていなかったと述べました。ある大学の研究も、この法律に基づく起訴がほとんどなかった点を挙げ、その抑止効果は誇張されてきたと見ています。ただし、特許状なしには自由に流通する株式市場を利用することが困難であったという制約自体は存在しました。
株式会社という形式のせいで貿易会社が植民地を領有することになった。
権限は形式からではなく特許状からもたらされました。1602年のオランダ特許状は、会社がアジアにおいて要塞を建設し、兵士を雇用し、現地統治者と条約を結び、裁判官を任命することを認めました。そして会社の統合そのものを政府が強制しました。スペインやポルトガルと交戦中だった連邦共和国にとって、統合された会社は強力な軍事・経済的兵器だったからです。同時代に持分と法人格を兼ね備えていたトゥールーズの水車小屋会社は、ただ小麦を挽いていました。
所有と経営の分離は20世紀の大企業から始まった。
1602年の特許状の時点から取締役は終身制であり、株主は取締役の選任に何の影響力も持たず、帳簿は10年後まで開示されませんでした。アダム・スミスは1776年にこの問題を「他人の金を管理する人々」という言葉で指摘しています。バーリとミーンズが1932年に経営者支配と分類した会社もアメリカ上位200大企業の44%であって過半数ではなく、エリック・ヒルトの研究は1820年代のアメリカの企業においても所有と経営が頻繁に分離していたと指摘しています。
つまり ひとことで
「最初の株式会社」は、何における最初なのかを明確にしなければ答えが出ません。持分を分割所有して自由に譲渡でき、裁判所が株主とは別個の実体として扱った組織は1372年のトゥールーズの水車小屋会社に遡り、国家の特許状によって法人となった貿易会社としては1600年のイギリス東インド会社が先行します。オランダ東インド会社が最も早いのは航海が終わっても資本が会社に残り続ける構造ですが、それは意図された設計ではありませんでした。1602年の特許状は1612年に出資者へ資金を返還することになっており、オランダ国立公文書館の記録によればその返還は行われず、特許状を発行した連邦議会は取締役たちを擁護しました。資本が固定されたことで出資する人と運用する人が分かれる問題が生じ、1623年の株主委員会や1647年の報酬改定はその場しのぎの弥縫策でした。会社が統治権力を持つに至ったのは持分という形式のためではなく、特許状が要塞や兵士、条約締結権を付与したからであり、同じ形式を持ちながらトゥールーズの会社は574年間にわたって小麦を挽き続けました。登記のみで有限責任を取得できるようにした1855年のイギリスの法律は「債権者を誰が守るのか」という反対に直面し、その問いは今もなお残されています。
参考資料
本文の年号と数字は以下の資料に基づいています。誤りを見つけたらお知らせください。
- オランダ東インド会社(VOC)アーカイブ 1.04.02 目録序文 Nationaal Archief (オランダ国立公文書館) 1602年3月20日の特許状と21年の有効期間、統合を政府が強制したという記述、先行諸会社の航海ごとの出資と返還、10年後の資本返還が行われず連邦議会が取締役を擁護したという記述、取締役の終身制・報酬1%・1647年の固定給化、1623年の株主委員会、持分証書(アクティ)の譲渡可能性、特許状が付与した要塞・兵士・条約・裁判官の権限、1609年の総督職と1619年のバタヴィア、1622年のバンダ征服と1667年のマカッサル、乗船者数
- 史料ボックス「VOC株式(1602)」 Nationaal Archief (オランダ国立公文書館) 1602年8月アムステルダム商会の資本登録簿の実物記載 — イサーク・ル・メール8万5,000ギルダー、召使いのヒリートヘン・ディルクス60ギルダー。1610年の保有していない株式の売却禁止と1611年のアムステルダム証券取引所
- 世界最古の株式(所蔵品解説) Westfries Archief (オランダ・ウェストフリース文書館) 1606年9月9日エンクホイゼン商会のピーテル・ハルマンスゾーンによる最終分割払込金150ギルダーの領収書、内側に記された1650年までの配当記録、2010年の発見経緯
- The Formative Years of the Modern Corporation: The Dutch East India Company VOC, 1602–1623 Oscar Gelderblom・Abe de Jong・Joost Jonker, 『Journal of Economic History』 73巻4号 (2013) この会社の形態が「先見の明というよりは設計上の欠陥を繕う中から生まれた」こと、そして「法的な形式が経済的機能に追随したのであって、その逆ではなかった」という結論
- A Collection of Charters and Statutes relating to the East India Company — 1600年特許状 イギリス東インド会社 憲章・法令印刷本転写 (Wikisource) 1600年12月31日、カンバーランド伯爵と「その他の215名」を一つの法人とし承継権を付与したこと、喜望峰の先からマゼラン海峡までの15年間の独占権
- The Present Value Relation Over Six Centuries: The Case of the Bazacle Company David le Bris・William N. Goetzmann・Sébastien Pouget (トゥールーズ経済大・イェール大) 1372年の設立から1946年の国有化までの株価・配当データ、持分が完全に譲渡可能であり14世紀から裁判所が会社を株主とは別個の実体として扱っていたという記述、327年分の平均配当利回り年5%。原史料はオート=ガロンヌ県立文書館
- アダム・スミス『国富論』第5篇第1章 — 株式会社に関する記述(1776) Marxists Internet Archive (公開転写本) 「自分のお金ではなく他人の金を管理する人々」、「怠慢と浪費は、そうした会社の経営において常に多かれ少なかれ現れざるを得ない」、「株式会社においては、各参加者は自己の持分の範囲までしか責任を負わない」
- 有限責任法案 — 下院議事録(1855年7月26日) UK Parliament, Historic Hansard ストラット議員の「損失の可能性は制限され利益の可能性は制限されない」という反対、スプーナー議員の「罠であり欺瞞」、ボール議員の「少額の資金を合わせれば巨額の資本になる」という賛成
- 有限責任法案 — 下院議事録(1855年7月30日) UK Parliament, Historic Hansard カードウェル議員が未払込残額を債権者の安全弁として挙げたこととそれに対する反論
- 有限責任法案 — 上院議事録(1855年8月7日) UK Parliament, Historic Hansard セント・レオナーズ卿の「10ポンド株に20%払込なら250〜300ポンドで1万社」という警告、グランヴィル伯爵の「商業界を不確実な状態に放置してはならない」
- 共同出資会社法案 — 上院議事録(1856年6月16日) UK Parliament, Historic Hansard 1844年法の仮登録・本登録手続きが無用であることが判明したという回顧、有限責任法の要件(25人・資本の4分の3・各20%払込)の要約
- 泡沫法廃止 — 下院議事録(1825年6月2日) UK Parliament, Historic Hansard 法務長官がこの法律を「到底理解しがたい」ものであり「事実上の死文」であるとし、10〜12年前まで訴追がなかったと述べたこと、ハスキソン議員の発言
- A Shackled Revolution? The Bubble Act and Financial Regulation in 18th Century England William McColloch, University of Utah Department of Economics Working Paper 2013-06 泡沫法に基づく起訴がほとんどなかった点を挙げ、その抑止効果が誇張されてきたとする論旨
- History(機関の沿革) Bank of England (イングランド銀行) 1711年の南海会社設立がイングランド銀行の地位を脅かしたこと、1720年の国債引き受けと株価急騰、暴落により数千人が破産したという記述
- When did Ownership Separate from Control? (NBER Working Paper 13093) Eric Hilt (Wellesley College·NBER), 2007 バーリとミーンズが経営者支配と分類した会社がアメリカ上位200大企業の44%であったこと、1820年代のアメリカ企業においても所有と経営が頻繁に分離していたという分析
- OECD Corporate Governance Factbook 2025 — 韓国カントリーノート OECD 2024年12月末時点の全世界46,086社・124兆5,360億ドル・対GDP比112.7%、韓国2,499社・1兆5,510億ドル・82.9%、投資家タイプ別保有構造(世界:機関投資家47% / 韓国:17%・企業27%)
- 商会社の設立(韓国文化史) ウリ歴史ネット — 国史編纂委員会 兪吉濬(ユ・ギルジュン)「商会規則」第25条の内容、1883年10月21日付『漢城旬報』「会社説」、1883・1885・1890年の商会社と約40社という集計、これらの会社が同業者組合い的性格であったという評価
- 大韓天一銀行 1899(写真で見る韓国史) ウリ歴史ネット — 国史編纂委員会 1899年1月29日の発起人総会、公称資本金5万6,000ウォンと112金・1金500ウォン、1909年度支部(財務官庁)の筆頭株主化とその後の名称の系譜
- 国家指定記録物第11号 — 大韓天一銀行創立および会計関連記録物 国家記録院 1899年1月30日に設立された株式会社であるという記述、高宗皇帝による創立資金54%の支援と英親王が筆頭株主として記録されたこと、定款の「朝鮮人以外に株式売買を行うことはできない」という制限
- 株式会社の概念 — 株主の有限責任(商法第331条) わかりやすい生活法令情報 — 法制処 株主の責任が引き受け価額を限度とする原則と、会社が債務超過状態であっても株主が会社の債権者に対して弁済する責任はないという説明